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第1帖・第2通の前段 [「『おふみ』を読む」その14]

第2回 第1帖・第2通、第3通

(1)  第1帖・第2通の前段

当流、親鸞聖人の一義(いちぎ)は、あながちに出家発心(ほっしん)のかたちを(ぼん)とせず、捨家棄(しゃけき)(よく)のすがたを(ひょう)せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定(けつじょう)せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。されば、この信をえたるを、『経』には「(そく)(とく)往生(おうじょう)(じゅう)不退転(ふたいてん)」ととき、釈には「一念発起入正定之聚(いちねんぽっきにゅうしょうじょうしじゅ)」ともいり。これすなわち不来迎の談、平生業(へいぜいごう)(じょう)の義なり。

(現代語訳) わが門流、親鸞聖人の浄土真宗においては、必ずしも出家して僧となることを求めるわけではありませんし、家を捨て欲を捨てなければならないと説くものでもありません。ただ一念、他力に帰命するこころの定まることが肝要であり、それには男女の別、老少の差は何も関係ありません。そして、この信心をえたことを『無量寿経』では「即得往生、住不退転(そのとき往生することができ、不退転の身となる)」と説いていますし、また曇鸞はそれを注釈して「一念発起、入正定之聚(一念、帰命の心がおこれば、そのとき正定聚のくらいにつく)」と述べています。これが「不来迎」、つまり臨終の来迎をまつことはないという教えであり、また「平生業成」、つまり信心が定まったそのときに往生も定まるという教えです。

ここにはきわめてコンパクトに親鸞の「現生正定聚」の教えがまとめられています。ただ、それだけに、これをはじめて聞く人にはいったいどういうことだろうと雲をつかむような心持にさせるのではないでしょうか。そこで僭越ながら、蓮如の言わんとするところを蓮如に代わって解説していきましょう。


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文明3年7月 [「『おふみ』を読む」その13]

(13)文明3年7月

この「おふみ」の日付に注目しましょう。文明3年というのは、蓮如が吉崎に移ったその年です。4月にこの地に来て、7月にこれが書かれているのです。吉崎御坊の礎が築かれだしたばかりで、まだ周囲は「虎狼(ころう)のすみなれし」山中であったと思われます。蓮如自身がその頃のことを1・8で次のように記録しています。

文明第三、初夏(4月)上旬のころより、江州(近江)志賀郡(しがのごおり)大津三井寺南別所辺より、なにとなく、ふとしのびいでて、越前・加賀、諸所を経回(けいがい、巡り歩く)せしめおわりぬ。よって、当国細呂宜郷内(ほそろぎごうのうち)吉崎というこの在所、すぐれておもしろきあいだ、年年虎狼のすみなれしこの山中をひきたいらげて、七月二十七日より、かたのごとく一宇を建立して、昨日今日とすぎゆくほどに、はや三年の春秋はおくりけり」(文明5年9月)。

「山中をひきたいらげて」とありますが、現地を訪ねてみますと、文字通り山の上を平らにして、かなりの広さの敷地を造成してあることが分かります。7月27日に「一宇を建立」とありますから、この頃は多くの人が集まってきて、辺りに建設の槌音が響いていたことだろうと思われます。突然「古歌」が登場して、身にもあまるよろこびに言及しているのは、おそらく吉崎という新天地をえて、しかも予想をこえる成功の兆しによろこびがあふれ出たのだろうと推測されます。「むかし」と「こよい」を比較して、思い切って北陸の地に移ったことの正しさを噛みしめていると思うのです。

それが文面上では、むかしの「念仏だにももうせば、往生するとばかりおもいつるこころ」と、こよいの「信心決定のうえに、仏恩報尽のために念仏もうすこころ」の対比となっています。むかしのこころでは「そでにつつむ」程度のよろこびだったが、こよいのこころは「身にもあまる」よろこびである、と。これはこれから繰り返し、巻き返し説き続けられる通奏低音です。

(第1回 完)


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第3段 [「『おふみ』を読む」その12]

(12)第3段


第1通の最後、第3段です。


古歌にいはく

うれしさをむかしはそでにつつみけり こよいは身にもあまりぬるかな

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは、(ぞう)(ぎょう)正行(しょうぎょう)分別(ふんべつ)もなく、念仏だにもせば、往生するとばかりおもいつるこころなり。「こよいは身にもあまる」といるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のう仏恩報尽(ぶっとんほうじん)のために念仏申すこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに身のおきどころもなく、どりあがるほどにおもだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといるこころなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明三年(1471年)七月十五日


(現代語訳) むかしのうたにこうあります、「うれしさを むかしは胸に ひめていた いまはもう身に あふれるばかり」。


「うれしさを むかしは胸に ひめていた」と言いますのは、むかしは、雑行と正行の区別もできず、ただ念仏をしていれば往生できると思っていたということです。「いまはもう身に あふれるばかり」と言いますのは、雑行と正行の違いがはっきり分かり、ただひとすじに信心が定まったうえで、その御恩に報じるために念仏をもうすということで、以前とはまったく違います。だからこそ、身のおきどころもないほど、身体が自然におどりあがるほど、よろこびが全身にあふれ出てくると言っているのです。謹言。


文明3年7月15日


 最後にきて、急に話題が飛びます、「坊主と門徒」の話から「身にもあまるよろこび」へと。



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取り次ぎ [「『おふみ』を読む」その11]

(11)取り次ぎ

ことば尻をとらえて難癖をつけているのではないか、と言われるかもしれません。仏光寺の場合は、名帳・絵系図により、坊主が門徒の救い(往生)を与奪する権限を握るのだから、代官として「如来の教法」を取り次ぐだけという蓮如とは根本的に異なると。それはまったくその通りで、蓮如自身がそういう観点から仏光寺的な「わが弟子」を批判しているわけです。ただ、「如来の教法」を取り次ぐだけの代官も、まかりまちがえば救いを与奪する権限をもつことになる可能性を排除できないのではないかと危惧するのです。

そもそも救いに取り次ぎが必要でしょうか。もう一度ルターの宗教改革を参照しますと、彼は神と人間との間を取り次ぐ聖職者の存在を否定し、「万人司祭説」を唱えました。信仰というのは、一人ひとりが聖書だけにもとづいて、直接神と結びつくものだと言うのです。その間に介在するものは何もない、と。親鸞の「非僧非俗」も同じ意味あいではないでしょうか。

「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるる」という言い回しにも親鸞らしさがよく出ています。「来る者拒まず、去る者追わず」です。

すぐ前のところで、親鸞の場合は「自信」が主で、「教人信」はそれにおのずから伴うものにすぎないと言いました。一方、蓮如は「教人信」に主眼がおかれて、「自信」はそのための当然の前提にすぎません。さて蓮如のいう代官ともなりますと、「来る者拒まず、去る者追わず」とはいかなくなるのではないでしょうか。どうしても「ねばならない」が顔を出し、去る者は追いかけてでも「おしえきかしむる」仕儀となるのではないか。親鸞はといいますと、「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と言います(『歎異抄』第2章)。


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如来の御代官 [「『おふみ』を読む」その10]

(10)如来の御代官

当面の箇所において、その違いは「如来の御代官」ということばにあらわれています。親鸞ならこういう言い方はしないだろうと思うのです。

代官というのは、如来と衆生を媒介して、如来の教えを衆生に伝える役割をするという趣旨でしょう。なるほど僧や善知識というのは、浄土の教えを人々にねんごろに伝える仕事をしているわけですから、如来の代官というのはそれをうまく表現しているではないか、という気もします。さてしかし、人々に伝えることができるのは「知識」としての浄土の教えにすぎません。いわゆる教義です。どの宗教にも教義があり、それについての精密な学問、教義学があります。学問をすることで教義について詳しく知ることはできますが、それはしかし信ずることとはまったく別のことです。

信ずることばかりは教えることはできません。それは「ひとへに弥陀の御もよほしにあづか」るしかないのです。だからこそ、そんなふうに「如来の御もよほしで」念仏しているひとを「わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のこと」です。「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや」と言わなければなりません。われも「如来の御もよほしで」念仏し、かれも「如来の御もよほしで」念仏しているのですから、これこそまさしく御同朋、御同行です。

一方、代官となりますとどうでしょう、御同朋、御同行と撞着してこないでしょうか。蓮如の言い分では、われもかれも「如来の教法」を信じているのだから、「とも同行なるべきもの」ということですが、しかし一方は「如来の教法」を伝授し、他方はそれを受持するのですから、普通の感覚ではやはり師弟の関係になるのではないでしょうか。そして、そうだとしますと、仏光寺の名帳・絵系図との境界線もぼやけてくるのではないかという気がします。


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微妙な違い [「『おふみ』を読む」その9]

(9)微妙な違い

「おふみ」を読みますと、そこかしこに親鸞的な感性との微妙な違いを感じざるをえません。違いと言っても、これとはっきり明文化できるようなものではなく、蓮如が親鸞の思想に何か変更を加えたというわけではもちろんありません。蓮如は長い修学時代に親鸞の著作はもちろんのこと、かなり幅広く学んでいますが、その中心は覚如(親鸞の曽孫)・存覚(覚如の長男)の著作だったようです。覚如にせよ、存覚にせよ、そして蓮如にせよ、祖師・親鸞の他力信心を顕彰しようとしているのですから、親鸞との間に明確な違いなどあるはずがありません。しかし、親鸞は法然の信心に変更を加えようなどとつゆほども思っていなくても、そこにはおのずからなる違いがあるように、蓮如と親鸞のあいだにも微妙な違いがあります。

どうしてそんな細かい違いにこだわるのか、と言われるかもしれません。小異を残して大同につく、と言うではないか、大きな一致点こそ大事だ、と。でも、それは世間のことで、出世間のこととなりますと、細かい差異、微妙な違いが大事だとも言えます。「神は細部に宿りたもう」のです。親鸞と蓮如との微妙な差異は何処にあるのかというのがぼくの問題意識で、いまこうして「おふみ」を精密に読もうとしているのも、実はそういう思いからです。ですから、それをこれから徐々に明らかにしていくのですが、前もって見取り図を描いておきますと、二人が立っていた「場」そのものの違いが根底にあるのではないかという見通しです。

善導の有名なことばに「自信教人信」があります。「自信」と「教人信」は別ものではなく、「自ら信ずる」ことがそのまま「人を教えて信ぜしむ」ことに他なりませんが、親鸞の場合、どちらかというと「自信」にウエイトがあり、「教人信」はそのおのずからなる帰結という気配であるのに対して、蓮如の場合、逆に「教人信」の意識が強烈で、「自信」はその当然の前提という感じです。そのことが、あらゆる方面に微妙な違いとして顔を出しているのではないか、そんな気がするのです。


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弟子一人ももたず [「『おふみ』を読む」その8]

(8)弟子一人ももたず

ここで蓮如が「故聖人のおおせ」と言っているのは、言うまでもなく『歎異抄』第6章のことです。そこにある親鸞のことばを蓮如流に解説しているのです。『歎異抄』のことばも著者・唯円のフィルターを通っていますから、親鸞のことばそのものとは言えませんが、それでも親鸞自身から直に聞いたことばですからオリジナルに近いと考えていいでしょう。それを上げておきましょう。

「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんと申すにや、かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。」

短いことばでピシッと言いたいことを言っていることに舌を巻きます。もうグーの音もでないというところです。蓮如はこれを咀嚼して自分のことばに置き換えているのですが、そこにはおのずから蓮如らしさが顔を出します。親鸞としては「わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせ」ているのではなく、その人自身が「ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念仏もうし」ているだけだと言いますが、蓮如はそれを「ただ如来の御代官をもうしつるばかり」であると言うのです。分かりやすく解説しているとも言えますが、そこに何かしら微妙な違いが浮かび上がってこないでしょうか。


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第1通第2段 [「『おふみ』を読む」その7]

(7)第2段

第1通の第2段です。

答ていわく、この不審もっとも肝要とこそ存じ候え。かたのごとく耳にとどめおき候分、もうしのぶべし。きこえめされ候え。故聖人のおおせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ、おおせられ候いつれ。「そのゆえは、如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり。さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをおしえて弟子といわんぞ」とおおせられつるなり。されば、とも同行(どうぎょう)なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり。されば、ちかごろは大坊主分のひとも、われは一流の安心(あんじん)の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに、信心の沙汰する在所へゆきて、聴聞し候ひとをば、ことのほか説諫(せつかん)をくわえ候て、或はなかをたがいなんどせられ候あいだ、坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、また弟子をばかようにあいささえ候あいだ、われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくように候こと、まことに自損損(じそんそん)()のとが、のがれがたく候。あさまし、あさまし。

(現代語訳) お答えします。この疑問はまことに大事ですので、わたしがお聞きしてきたことを一通りでも申し述べたいと思います。よくお聞きください。親鸞聖人は「弟子をひとりとしてもっておりません」と言われました。「なぜなら、弥陀の教えを皆さんに説くときは、ただ弥陀の代官をつとめているだけで、なにか目新しい教えを言うでもなく、ただ弥陀の教えを自分も信じ、人にもお聞かせしているだけですから、どうして弟子などと言えるでしょうか」と。としますと、友であり同行と言うべきでしょう。聖人は御同朋・御同行と敬われておりました。このごろの大きな寺の坊主のなかには聖人の信心のおもむきを知らないで、弟子のなかで他所の説教を聴聞したりする人がありますと、ことのほか叱責したり、仲をたがえたりしているようですが、これは坊主もしっかりと信心のあり方を聴聞せず、また弟子をもさまたげて、自他ともに信心が定まらず、一生がむなしくすぎていくということです。これではまことに自他を損なうという罪から逃れられません。哀れなことです。


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坊主と門徒 [「『おふみ』を読む」その6]

(6)坊主と門徒

いよいよ1・1の本文に入りましょう。この「おふみ」のテーマは「坊主と門徒」です。

前に仏光寺派の名帳〈みょうちょう〉・絵系図〈えけいず〉に触れましたが、「坊主と門徒」の関係を考える上でこれは恰好の材料となります。名帳といいますのは、ひとつの道場の主=坊主が、自分のもとに帰属する信徒の名を記した帳面のことですが、ただの名簿という位置づけではなく、そこに名前が記載されることで極楽往生が保証されるという意味あいが出てくるのです。仏光寺派は了源が事実上の祖ですが、この人は高田門徒の流れをくみ、親鸞を開祖、第2世を真仏として、自分を第7世に位置付けます。で、仏光寺派の坊主たちは、了源の門流にあることで己の正当性を主張し、その名帳に記載されることが極楽往生の保証であると言うのです。さらに絵系図はこの師資相承の系譜を絵図にあらわし、その正当性を視覚的に確認しようとします。

名帳・絵系図のもつ意味は明らかです。坊主が門徒の極楽往生を保証するという構図、これです。門徒からしますと、名帳に載せられることで往生一定の安心が得られますし、坊主からしますと、名帳に載せる権限を握ることにより門徒を己のもとに掌握し、ひいてはお布施をしっかり確保することができます。これがいかに本来の他力信心の姿から遠いかは多言を要しないでしょう。ルターの宗教改革を思い起こさせます。ルターはローマカトリック教会による免罪符の販売を機に教会改革ののろしを上げたのでした。カトリック教会が発行する免罪符を購入することにより天国への切符が手に入るというのは、あまりにも信仰を歪曲するものではないか、と。

さて、この「おふみ」は冒頭に、ある道場主の疑問をあげます、自分のもとに集う門徒を「わが弟子とこころえおくべく候やらん、如来・聖人の御弟子ともうすべく候やらん」と。そしてそれに蓮如は次のように答えるのです。


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5帖おふみ [「『おふみ』を読む」その5]

(5)5帖おふみ

最初の「おふみ」とされるのが、寛正2年(1461)に金森〈かねがもり、滋賀県守山市〉の道西(どうさい)に下されたものです。蓮如47歳のときで、それから84歳まで書き続けたものをすべて集計しますと252通にも上ると言われます(数え方で数字はゆれます)。蓮如の子である第9代法主・実如がそれらのなかから80通を選び、5帖にまとめたとされます(『5帖おふみ』)。第1帖から第4帖までの58通は、年代別に早い順に並べられ、第5帖22通は、いつ書かれたか記されていない比較的短いものが集められています。この第5帖は真宗の教えを簡潔に述べたものとしておそらく最初に編集されたと考えられ、これだけを別に出版することもあったようです。

さて書かれた年代の分かるもの(第1~4帖)を、時代順に整理してみましょう。

  吉崎時代 1・1から3・10まで40通

  出口時代 3・11から4・4まで7通

  山科時代 4.5から4・9まで5通

  大坂時代 4.10から4.15まで6通

吉崎時代が他を圧倒しています。蓮如が吉崎に滞在したのはたったの4年にすぎませんが、この4年がいかに疾風怒濤の時代であったかがうかがえます。2・13は文明6年7月3日、2・14は7月5日、2・15は7月9日、3・1は7月14日といった具合で、矢継ぎ早に出されていることが分かります。おびただしい数の人たちが吉崎に押し寄せてきて、それだけ教化が進んだということですが、それは同時に、さまざまな問題が露呈してくるということでもあります。それに対応すべく蓮如は獅子奮迅の働きを見せなければなりませんでした。


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