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選択称名の願 [『教行信証』精読(その53)]

(7)選択称名の願

 そして「選択称名の願」とは、名号(すなわち称名)が弥陀(法蔵)によって選択されたものであるということです。
 どうして第十七願で「わが名」が十方の衆生に届けられねばならないかといいますと、法蔵は自分の願い(誓願)をどうすれば一切衆生のもとに届けることができるだろうかと五劫思惟し、その結果、諸仏が「わが名」を称えるというかたちしかないという結論に至ったということです。『大経』の該当する箇所を読みますと、法蔵は世自在王仏から二百一十億の諸仏の国土・人天のありさまを覩見させていただき、「五劫を具足して、仏国を荘厳すべき清浄の行を思惟し、摂取せり」とあるだけで、法蔵は「諸仏の称名」という方法でわが誓願を十方衆生に届けようとしたと書いてあるわけではありません。
 それは親鸞が第十七願から聞き取ったというしかありません。
 親鸞がそう聞き取るまでは、ただ諸仏が阿弥陀仏の徳をほめたたえるというようにしか受け取られてこなかった第十七願を、諸仏の称名は弥陀の誓願を一切衆生のもとに届けるためであると受けとめたのです。願いはただ願いとしてあるだけでは無力であり、その願いが向けられている相手にしっかり届けられなければなりません。ではどうすれば願いを届けることができるのかと考えに考えた挙句、世界中の諸仏に「わが名」をほめたたえてもらおうという方法にたどり着いた。それが第十七願の意味であると親鸞は聞き取ったのです。
 以上のことから了解できるのは、浄土の行というとき、それはまずは「諸仏の称名」であるということです。諸仏が弥陀の名号を讃え称えること、これがすべてのスタートです。そして、それはわれらの側から言いますと、諸仏の称名の声が聞こえるということに他なりません。諸仏の称名はわれらの聞名であるということです。かくしてわれらは弥陀の本願に遇うことができるのですが、そのとき何が起こるかと言いますと、われらの口からおのずと南無阿弥陀仏の声が漏れ出るのです。これが「われらの称名」ですから、「この行は大悲の願よりいでたり」ということになるわけです。

タグ:親鸞を読む
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