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名を聞きて [『教行信証』精読(その56)]

(10)名を聞きて

 「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」という東方偈の文は、古来、浄土教において大事にされてきたものですが、これはしかし第十八願の成就文「あらゆる衆生、その名号をききて信心歓喜せんこと乃至一念せん。…かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す」と大きく重なりますから、どうして親鸞は第十七願に関係させるのだろうかという疑念を抱かせます。「行巻」ではなく「信巻」にふさわしいのではないかと(実際「信巻」においても、この文は、完全なかたちではありませんが、引かれています)。
 親鸞がこの文を第十七願の成就文に関連させて取り上げたわけは、「名を聞きて」という文言に着目したからに違いありません。諸仏が阿弥陀仏の徳を讃えて称名することにより、われら十方世界の衆生は「名を聞く」ことができるわけですから、この文は第十七願につながってくるということです。諸仏の称名は、取りも直さず、われらの聞名です。ここから了解できるのは、第十七願と第十八願とは密接に関係しあっているということです。同じことですが、行と信は一体不可分であるということ。これまでもそのことに何度か言及してきましたが、ここにきて改めて確認することができます。
 ぼくらは念仏といいますと、ぼくらが称名することとしか受け取りませんが、ぼくらが称名するのは、それに先立って諸仏の称名があるからだということ、ここに念仏の本質があります。むこうから(諸仏から)南無阿弥陀仏の声が聞こえてきます。その声は「(いのちのふるさとへ)帰っておいで」と呼びかけている。その声が身に沁みて、ぼくらはただちに「はい、ただいま」と返事する。呼びかけがあるから応答するのであり、このすべてが念仏であるということ、これを明らかにするのが「行巻」であり「信巻」であるということです(第十七願と第十八願、行と信が一体であることは、少し先の『大阿弥陀経』と『平等覚経』からの引用でもっと鮮明になってきます)。

タグ:親鸞を読む
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