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第十七願と第十八願 [『教行信証』精読(その60)]

(2)第十七願と第十八願

 これを読んですぐ気がつきますのは、『大経』や『如来会』では第十七願と第十八願とに分かれている願が、ここではひとつにまとめられているということです。前半の「それがし作仏せしめんとき、わが名字をもて、みな八方上下無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏をして、おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳国土の善を説かしめん」が『大経』や『如来会』の第十七願にあたり、後半の「諸天人民蜎飛蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願をえて、いまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ」が第十八願にあたります。
 そして、このようにひとつながりの願となっていることにより、『大経』や『如来会』では別の願となっている第十七願と第十八願の意味するところが俄然くっきりと浮かび上がってきます。前に検討しましたように、『大経』の第十七願は何の気なくサッと読みますと、ただ諸仏に「わが名」をほめられたいと願っているだけかのように受け取られる可能性があります。親鸞はその危険を察して、重誓偈から「われ仏道をならんにいたりて、名声十方にこえん。究竟して聞こゆるところなくば、ちかふ、正覚をとらじと」という偈文を引用したのでした。「わが名」が諸仏により咨嗟(ししゃ)されるよう願うのは、名号が世界中の衆生に聞こえるように願うからだということを確認しているのです。
 ところがこの『大阿弥陀経』の第四願では、そのような勘違いの入り込む余地はまったくありません。諸仏が称名するのは、名号を「無央数の仏国に聞かしめん」とするがためであるとはっきり書かれており、さらに、どうして名号を「聞かしめん」とするかというと、「わが名字を聞きて慈心せざる」をえない「諸天人民蜎飛蠕動の類」を「みなわが国に来生せしめ」んがためであると明記されているのです。かくして法蔵菩薩が何を願っているかが一点の曇りもなく明らかになります。
 親鸞が『大経』と『如来会』だけでなく『大阿弥陀経』からも引用しなければならなかったわけがよく分かります。

タグ:親鸞を読む
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