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弥陀の悲願ひろまりて [親鸞最晩年の和讃を読む(その12)]

(6)弥陀の悲願ひろまりて

 さて、ここが微妙で厄介なところですが、主観的真理としての仏法がもはやどこにも存在しないという事態は、それが存在しないとすら言えないということです。存在すると言えないのはもちろん、存在しないとも言えないのです。どういうことか。仏法が竜宮にはいってしまったということは、それがすっかり忘れられてしまったと言い換えることもできますが、まったく忘れられ、忘れられたこと自体が忘れられてしまったことは、あると言えないのはもちろん、ないと言うこともできません。忘れたこと自体を忘れてしまっているのですから。
 ぼくはこの頃とみに耳が遠くなり、とりわけある波長の音はよく聴きとれなくなりました。あるとき妻が「あ、きれいな小鳥の声が聞こえる」と言っても、ぼくには何も聞こえません。そのとき、もし妻が「小鳥の声が聞こえる」と言わなければ、ぼくには小鳥の声が聞こえることはもちろんありませんが、聞こえないこともありません。そのときぼくには何ごとも起っていないのです。で、妻に言われて、よーく耳を澄ませてみてようやく、かすかに小鳥のさえずりが聞こえたとしましょう。そのときはじめてぼくは、「あ、聞こえる」と思うと同時に、「あゝ、前には聞こえていなかったんだ」と気づくのです。
 このように、仏法が竜宮にはいったということは、それはもはや存在しないとも言えなくなったはずですが、ではどうして仏法が竜宮にはいってしまったと言えるのでしょう。その答えは次の和讃で与えられます。

 像末五濁の世となりて
  釈迦の遺教(ゆいきょう)かくれしむ
  弥陀の悲願ひろまりて
  念仏往生さかりなり(18)

 「釈迦の遺教かくれしむ」ものの、「弥陀の悲願ひろまりて、念仏往生さかりなり」とあります。末法の世には弥陀の本願がひろまることによって、はじめて釈迦の遺法が竜宮にはいってしまったと言えるのです。どういうことか。これを了解するためには聖道門と浄土門の違いを理解する必要があります。

タグ:親鸞を読む
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