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聖道門と浄土門 [親鸞最晩年の和讃を読む(その13)]

(7)聖道門と浄土門

 聖道門と浄土門ということばは道綽に由来しますが、そのおおもとは龍樹にあります。彼は仏道に難行道と易行道の別があることを明らかにしてくれました、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行(ぶぎょう)はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進(ごんぎょうしょうじん)のものあり、あるいは信方便の易行をもて、とく阿惟越致(あゆいおっち、不退転)にいたるものあり」(『十住毘婆沙論』)と。仏法を悟るのに、陸道を一歩一歩進むように苦しい道と、水道を船に乗って進むように楽しい道があるというのです。
 そして曇鸞は龍樹の言う難行道は自力の道であり、易行道は他力の道であるとして、その違いをより明確にしてくれました。前者はみずから悟りをめざして歩むのに対して、後者は本願他力に乗じて悟りに至るのであると。さらに道綽はそれを聖道門と浄土門と表現し、それを正像末法史観と結びつけたのです、「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」(『安楽集』)と。末法の世では聖道門はもはや閉ざされ、浄土門だけが入れるというのです。
 親鸞がこのうたで「釈迦の遺教かくれしむ」というのは、聖道門が閉ざされてしまったということであり、仏法そのものが閉ざされてしまったということではありません。繰り返し言いますように、仏法そのものが閉ざされてしまいますと、仏法が閉ざされたということすら言えなくなります。仏法の聖道門は閉ざされてしまいましたが、その浄土門は開いているのです。このうたで「弥陀の悲願ひろまりて」というのは、今やただ浄土門だけが通入できるということです。
 さてしかし、どうして像末五濁の世になると、聖道門が閉ざされ、ただ浄土の一門のみが通入できるようになるのでしょう。それを考えるために、あらためて聖道門と浄土門の異同を確認しておかなければなりません。まず、やれ聖道門だ、浄土門だと言っても、どちらも同じ仏教であるということ、この当たり前のことがとかく忘れられてしまいます。聖道門仏教と浄土門仏教の二つがあるように思われてしまうのですが、いまさら言うまでもないことながら、どちらも釈迦を祖とする同じ仏教です。

タグ:親鸞を読む
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