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はからわれているから、はからうことができる [親鸞最晩年の和讃を読む(その23)]

(7)はからわれているから、はからうことができる

 往相も還相もみな、われらの自力回向ではなく、如来の他力回向であるということ、これは浄土真宗の要となる教えです。先に、願作仏心も度衆生心も、われらがそのように願っていると思っているが(いや、現にそう願っているのですが)、それに先立ってそのように願われているのであり、願われているから願うことができるのであることを見ましたが、同じように、往相も還相も、われらがそのようにはからっている(回向している)と思っているが(いや、現にそのようにはからっているのですが)、それに先立ってそのようにはからわれている(回向されている)のであり、はからわれているからこそはからうことができるということです。
 どうしてそんなことが言えるのか、という疑問が出されるかもしれませんが、それには、いや、そのように願われているということ、はからわれているということに「気づかされる」のです、としか答えられません。それが本願他力に遇うということです、と。それではあまりに愛想がないではないかということでしたら、こう答えましょう。必死の思いで自他の救いを求めているとき、どこからかこんな声がしてくることがあります、「ほんとうにそうか?そこに嘘はないか?」と。宮沢賢治の言うように「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」とほんとうに思えるのか、どこかにごまかしはないか、と。
 そのとき、自力の菩提心や自力の回向の正体が目の前に突き付けられます、それが自力である以上、自分ひとりの救いを求めるものであっても、よろづの衆生の救いを求めるものではありえない、と。なぜなら、わられはもうどうあっても「わたしのいのち」を独断的に善として、それを他の「わたしのいのち」たちより上に置くべく宿命づけられているからです。それが「わたしのいのち」に囚われるということ、すなわち我執というものであり、われらはそこから抜け出すことはできないからです。このように思い知らされてはじめて、われらはそう思い知らせるものに目覚めることができるのです。それが本願他力に遇うということです。
 「われらが身の罪悪の深きほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよへる」(歎異抄、後序)とありますが、われらはわが身の罪悪の深きを思い知らされることではじめて如来の御恩の高きことに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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