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往って、還るのではなく [親鸞最晩年の和讃を読む(その24)]

(8)往って、還るのではなく

 往相も還相もわれらの自力回向ではなく、弥陀の本願力回向であることをみてきましたが、ここから往相と還相の関係について考えることができます。
 往相、還相ということば自体が、まず往相があり、しかる後に還相があるという思い込みを生みます。まず「往く」ことがなければ、「還る」ことはできないからです。かくしてこれまでずっと往相と還相は時間的に隔てられたものと思念されてきましたし、今もなおそう思念されています。そして往ってから還るのですから、今生が往相のときであり、還相は来生であるのが当然と思い込まれています。今生で救っていただき、来生にまたこちらに還ってきてよろづの衆生を救うはたらきをするのだ、と。
 この「往って、還る」という図柄を徹底して払拭しなければなりませんが、この図柄の元にあるのが「今生は娑婆、来生に浄土」という思い込みですから、そこからして焼き直しをしなければなりません。今生でははるか先にある浄土を仰ぎつつ、いのち終わるときに臨んで浄土へ迎えていただくが、往った途端にまた娑婆に戻ってきて、衆生済度のはたらきをするというように、「娑婆から浄土へ往き、浄土から娑婆に還る」という往還の図式が辺りを覆い尽くしています。
 往生とは何でしょう。言うまでもなく、浄土へ往くことですが、伝統的な浄土教ではそれがひとつの「点」とイメージされてきました。いや、今もそうです。娑婆から浄土へ往くのは、時間の中のある一瞬であって、それが「いのち終わる時(寿終時)」であると思い込まれています。それは娑婆という空間と浄土という空間が明確に一つの線で区画されているという前提があるからです。国と国が国境線で区画されているように、娑婆と浄土も一本の境界線で区画されていると。そうしますと、その境界線を越えるのはある時点ということにならざるをえません。かくして往生は点ということになります。
 しかし往生は「点」ではなく「線」ではないでしょうか。それには始点があり、終点もあるでしょうが、それらを含めた線のすべてが往生です。

タグ:親鸞を読む
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