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往くことが、そのままで還ること [親鸞最晩年の和讃を読む(その25)]

(9)往くことが、そのままで還ること

 往生の始点が信心のときです。本願に遇うことができ、「わたしのいのち」を生きながら、そのままで「ほとけのいのち」を生きていると気づくことができたそのとき、往生の旅が始まります。これまでは、ただひたすら「わたしのいのち」を生きていると思っていましたが、あるとき、「あゝ、もう“ほとけのいのち”を生きているではないか」と気づく。いや、こう言った方がいいでしょうか、「あゝ、“ほとけのいのち”に生かされて“わたしのいのち”を生きているのだ」と気づく―これが旅立ちの時です。
 それからずっと往生の旅はつづき、それが終わるのがおそらく「いのち終わる時」であり、そのとき「わたしのいのち」はすっかり「ほとけのいのち」へと解消されるのでしょう。おそらく、といいますのは、それから先のことはどうにも分からないからです。死んだ後のことは清沢満之に倣い、「来世の幸福のことは、私はマダ実験しないことであるから、此処に陳ることは出来ぬ」(「わが信念」)と言わなければなりません。来世のことは「マダ実験しないことであるから、此処に陳ることは出来ぬ」からといって何も困ることはありません。なぜなら、もうすでに「ほとけのいのち」を生きているのですから。現生に安心があるのですから、来生の安心を待つことはありません。
 さてこのように、往生は「ほとけのいのち」への旅路であるとしてはじめて、往相がそのまま還相であることがすっと肚に落ちます。
 前に「願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり」とあったことからしまして、「往相はすなはちこれ還相なり」と言わなければなりません。往相はそのままで還相であるということですが、これはしかし往相も還相も如来の本願力回向だからこそです。本願力回向により、われらの救われる相(すがた)が、取りも直さず、よろづの衆生を救う相(すがた)となっているのです。当人としますと、あくまでも救われる相にあるだけですが、それが周りの人たちを救う相になっているということです。

タグ:親鸞を読む
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