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信ずるとは [親鸞最晩年の和讃を読む(その27)]

            第4回 等正覚にいたる

(1)信ずるとは

 願作仏心と度衆生心は如来の往相・還相の回向であると述べられてきましたが、その本願力回向を信ずるひとは等正覚にいたると詠われます。

 如来二種の回向1を
  ふかく信ずるひとはみな
  等正覚2にいたるゆゑ
  憶念の心はたえぬなり(24)

 注1 往相回向と還相回向。
 注2 仏の悟りである正覚のひとつ手前で、正覚にひとしいということ。菩薩52階位の第51位。左訓に「正定聚の位なり」とある。

 弥陀智願の回向の
  信楽まことにうるひとは
  摂取不捨の利益ゆゑ
  等正覚にいたるなり(25)

 表現は多少異なりますが、きっちり同じことを詠っています。まず弥陀の回向を「ふかく信ずる」、「信楽まことにうる」という言い回しに注目しましょう。普通の意味で「信じる」というのは、あることを真である(あるいは善である、美である)として、心の中に取り込み、それを手放さないようにすることです(しっかり握りしめています)。しかし、ここで弥陀の回向を「信ずる」というのは、それを心の中で握りしめるのではなく、むしろ心の汚れ、濁りが取り去られることで(信と訳されるプラサーダの原義は「濁りが澄む」ということです)、そこに弥陀の回向が届いていると気づいていることです。
 心の汚れ、濁りと言いましたが、心の「囚われ」と言った方が実情に即しているかもしれません。前に述べましたように(第2回、10)、心が何かに囚われているときは、それに気づいていないという特質があります。それに気づいていないことが囚われていることの証拠です。そして気づいたときにはもう囚われていません。心が「わがもの」に囚われているとき(それが我執です)、それに気づいておらず、気づいたときにはもう囚われから抜け出ています(これが無我です)。

タグ:親鸞を読む
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