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囚われに気づきながら、囚われている [親鸞最晩年の和讃を読む(その29)]

(3)囚われに気づきながら、囚われている

 もし囚われの気づきをみずから手に入れることができるとしますと、もう二度と囚われないことでしょう。地球は太陽の周りを回っているという真理をみずからつかみ取った人は、もう太陽が地球の周りを回っているという以前の認識に戻ることはないように、われらは「わがもの」に囚われており、それがあらゆる苦のもとであるという真理をみずからの力で体得することができたとしましたら、もうそれ以後は「わがもの」に囚われることがないでしょう。
 さてしかし、すでに述べましたように、「わがもの」に囚われているという事実をみずからの力で体得する(ゲットする)ことはできません。みずからゲットするということは「わがもの」とすることですが、「わがもの」に囚われているという事実を「わがもの」にすることほどおかしなことはあるでしょうか。「わがもの」に囚われていることは、こちらからゲットできることではなく、むこうからその事実に気づかされるしかありません。あるとき、その事実にわれらがゲットされているのです。
 もしわれらが「わがもの」への囚われを体得できるのでしたら、もう囚われないようになるでしょうが、どこかから囚われの事実に気づかされるのだとしますと、囚われている現実をまざまざと突き付けられ、あゝ、こんなにも深く囚われているのかと、打ちのめされるだけです。それではしかし囚われに気づくことにどんな意味があるのか、と言われるかもしれません。気づこうが気づくまいが、同じように囚われたままだとしたら、気づくことに何の意味があるのかと。
 大いに意味があるのです。この気づきはわれらに許された最高の智慧と言っていいものかもしれません。「わがもの」に深く囚われていることに気づかされますと、囚われながら、その現実をしかと見つめています。囚われながら、あゝ、これは囚われだと自覚しています。そうしますと、もう囚われに足を取られなくなります。囚われなくなるのではありません、これまでと変わらず囚われているのですが、これは囚われだと自覚することで、それ以上深みにはまることがなくなるのです。これが囚われに気づくことにより囚われから片足だけ抜け出ていながら、しかし依然として囚われているということで、「正覚にひとしい」とか「仏とひとし」とはこのことです。

タグ:親鸞を読む
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