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光と闇 [親鸞最晩年の和讃を読む(その40)]

(6)光と闇

 「無明長夜」でありながら「灯炬」があると言えるのは、「無明長夜」にせよ「灯炬」にせよ、それに気づいてはじめて存在するからであり、そして「無明長夜」であるという気づきと、大いなる「灯炬」があるという気づきとは別ではなくひとつであるからです。
 光と闇は互いに他を否定します。ある場所に光があるということは、そこには闇がないということであり、ある場所に闇があるということは、そこには光がないということです。このように光と闇は両立できません。月の光のように光の量が少なく、あたりが薄暗いということはあります。そのときには少しの光と少しの闇が同時にあるということもできるでしょうが、しかしその場合も、光が増えれば、それだけ闇が減りますから、光と闇はやはり互いに否定しあっていると言わなければなりません。
 あるいは、光が強ければ強いほど、その陰の闇はより深いということはあります。この場合、強い光と深い闇が共存しているかのようです。これもしかし光と闇は相互に否定しあうということに対する反論にはなりません。この現象は、強い光があれば、それが遮られた部分で闇が濃くなるということですから、光と闇は互いに排除しあうことを否定するどころか、むしろ裏書きしています。
 さて、光と闇はこのように互いに排除しあうにもかかわらず、光の気づきと闇の気づきは互いに他を必要とします。光の気づきがあるところには必ず闇の気づきがあり、その逆もまた真です。
 『創世記』の冒頭部分に「神は光あれと言われた。すると光があった」と書かれていますが、としますと、神によって光が創造される前の世界はどうだったでしょう。「闇の世界だったに決まっているじゃないか」という答えが返ってくると思います。さてしかし、もし光が創造される前に誰かがいたとしますと(これは『創世記』の想定にはありませんが)、その人は闇の世界にいると思っていたでしょうか。
 思っていたはずはありません、その人は光を知らないのですから、闇を知ることもありません。その人は光に遇ってはじめて「あゝ、これまでは闇の世界にいたのだ」と気づくはずです。ではそれまではどんな世界だと思っていたか。光の世界ではないのはもちろん、闇の世界でもない、ノッペラボーの世界にいたのです。

タグ:親鸞を読む
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