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二種深信 [親鸞最晩年の和讃を読む(その43)]

(9)二種深信

 願力は無窮と信じることと、己は罪悪深重であると信じること。もっと簡単に、本願(光)に気づくことと、煩悩(闇)に気づくこと。この二つは二にして一であると繰り返し述べてきました。前者を法の深信、後者を機の深信といいますが、善導は信心にこの二つの相があることを明らかにしてくれました。このことひとつで善導は永遠に輝いていると言ってもいいのではないでしょうか。
 本願に気づくこと(法の深信)と煩悩に気づくこと(機の深信)はひとつですから(一つの信心の二つの相にすぎませんから)、どちらが先ということはありません。本願に気づいた時には、煩悩に気づいていますし、煩悩に気づいた時には、本願に気づいています。しかし実際問題として、われらが二種深信についての経験を語ろうとしますと、そこに順序をつけざるを得ず、どちらかを先に言うことになります。法の深信があると言い、しかる後に機の深信があると言うか、機の深信があると言って、その後に法の深信があると言うかのどちらかです。そして、この順序が重要な意味をもつことになります。
 善導はといいますと、まず機の深信を言います、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」と。そして法の深信を出します、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」と。一方、ここで上げた二首は、まず法の深信を上げ、次いで機の深信を出しています。
 第36首は「(本願は)無明長夜の灯炬」であるから「(自分は)智眼くらしとかなしむな」と言い、「(本願は)生死大海の船筏」であるから「(自分は)罪障おもしとなげかざれ」と詠います。また第37首は「願力無窮にましま」すから「罪業深重おもからず」と言い、「仏智無辺にましま」すから「散乱放逸もすてられず」と詠います。このようにまず法の深信を出し、それを根拠として機の深信に言及しているのです。

タグ:親鸞を読む
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