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かたきがなかになほかたし [親鸞最晩年の和讃を読む(その50)]

(6)かたきがなかになほかたし

 さらに、往生の因としての信心をえることの難しさが詠われます。

 不思議の仏智を信ずるを
  報土の因としたまへり
  信心の正因うることは
  かたきがなかになほかたし(48)

 「不思議の仏智を信ずる」とは、どこかにある「不思議の仏智」(それは本願に他なりませんが)をゲットして自分のなかに取り込むことではありません、気がついたら「不思議の仏智」のなかに取り込まれていたということです。気がついたら「不思議の仏智」のなかに摂取不捨されていたということ、これが信心です。信心とは本願にわれらがつけ加えなければならない何かではありません、本願に気づくこと、これが信心です。本願プラス信心イコール往生ではありません、本願イコール信心イコール往生です。何度も何度も同じことを繰り返して述べてきましたが、これがしかし難しい。「かたきがなかになほかたし」です。
 なぜか。まず「因」があって、しかる後に「果」があるという図式がわれらの骨の髄まで染み込んでいるからです。
 本願を信ずるという「因」があって、しかる後に往生浄土という「果」がえられる、これはすっと頭に入ります。われらの常識である因果の図式にスポッとはまるからです。かくして、われらが本願を信じ念仏すれば、それが「因」となって、後に(臨終において)弥陀の来迎をうけ、往生浄土することができるという教えがずっと信奉されてきました。さあしかし困るのが『大経』の本願成就文です。「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生をえ、不退転に住せん」という経文をどう理解すればいいか。この「すなはち」は「そのとき」という意味ですから、素直に読みますと、「かの国に生ぜんと願じた」そのとき、『歎異抄』のことばをかりれば、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこる」そのとき、往生を得るということになりますが、さてさてこれをどう解釈するか。

タグ:親鸞を読む
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