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仏智のもよおし [親鸞最晩年の和讃を読む(その78)]

(5)仏智のもよおし

 さてしかし、人知は人間が世界に持ち込んだものにすぎないことをどのようにして自覚できるのでしょう。
 「無知の知」には「嘘つきのパラドクス」と同じ困難が待ち構えています。「わたしは嘘つきです」と誰かが言うとしますと、その人は嘘つきですから、「わたしは嘘つきです」も嘘となります。もしその人が嘘つきでないとしますと、「わたしは嘘つきです」は虚偽となり、いずれにしてもこの言明は成り立ちません。同じように、誰かが「わたしは無知である」と言うとしますと、その人は無知ですから、「わたしは無知である」ことも知らないはずです。もしその人が無知でないとしますと、「わたしは無知である」は虚偽となり、いずれにしてもこれは成り立ちません。
 としますと、「わたしは嘘つきです」も「わたしは無知である」もただのナンセンスでしょうか。とんでもありません、これらのことばには有無を言わせぬ真実があります。ただ、これらを自分で自覚したとすることからパラドクスが生まれるのです。そうではなく、どこかから「おまえは嘘つきではないか」、「おまえは無知ではないか」と気づかされたとしたらどうでしょう。こうした突き上げを受けて、「あゝ、わたしは確かに嘘つきです」、「おっしゃる通り、わたしは無知です」と言わざるをえなかったとしたら、これらの言明には何のパラドクスもありません。
 「無知の知」とは、自分の無知を自分が知ったということではなく、自分の無知に仏智から気づかされたということです。仏智のうながしを受けて、わが無知を自覚したということです。かくしてわが無知の気づきは、同時に仏智の気づきであることが判明します。ここから言えますのは、無知に気づくことは、その前で立ちすくんでしまうことではなく、自分は何も知らないと思うからこそ、仏智に支えられ、人知を愛し求めようとするこころが起ってくるということです。哲学(フィロソフィア)とは知(ソフィア)を愛する(フィロ)という意味です。

タグ:親鸞を読む
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のん

面白かったです
by のん (2020-04-29 16:09) 

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