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往相がそのまま還相 [『教行信証』精読2(その104)]

(17)往相がそのまま還相

 往相がそのまま還相であるということについてもう少し考えてみましょう。
 親鸞は善導のことばをもとに「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」と述べていますが(『末燈鈔』第3通)、浄土はこことは別のどこかにあるのではなく、信心のときにこの穢土のただなかに到来するのです。そうして穢土は穢土のままで浄土となるのです。これをぼくは「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」となると言ってきました。より正しく言えば、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であることに気づくのです。信心をえるまでは「わたしのいのち」はただの「わたしのいのち」にすぎませんでしたが、信心のときに「わたしのいのち」のただなかに「ほとけのいのち」が到来し、「わたしのいのち」は何も変わらないのに、それが同時に「ほとけのいのち」であることに気づくのです。
 「わたしのいのち」を生きるとは煩悩具足の凡夫として火宅無常の世界(穢土)に生きるということですが、それがそのままで「ほとけのいのち」(浄土)を生きることであると気づいたとき、何が起こるでしょう。まずは「わたしのいのち」を生きていることが恥ずかしくなります。我執にまみれた人生を天にも人にも恥じる思いがわいてきます。そしてそれと結びついて、この火宅無常の世界を共に生きる人たちと一緒に少しでも浄めなければという気持ちが起こってきます。どこかに書いてあって印象に残っていますが、浄土とは「浄らかな土」であるとともに「土を浄める」ことでもあります。この穢れた土を、たとえ海水から一滴だけすくい取るようなものだとしても、一滴だけでも浄めようという思い、これが還相です。
 往相がはじまるとき、還相もまたはじまるのです。『歎異抄』第4章の「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」にいう文言に囚われて、今生に慈悲のはたらきをすることはできないと速断すべきではありません。われらが「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことができると思うのは驕りといわなければなりませんが、他利としての慈悲のはたらきは信心とともにはじまるのです。

タグ:親鸞を読む
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