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真実と方便 [『教行信証』精読2(その110)]

(3)真実と方便

 さて、「二乗三乗は一乗に入らしめんとなり」とあります。釈迦の教えには八万四千の法門があると言われ、声聞のための教え、縁覚のための教え(この二つが小乗の教えです)、菩薩のための教え(大乗聖道門の教えです)とさまざまありますが、みな誓願一仏乗に入らせるための方便にすぎないというのです。これはしかし物議をかもしてしかるべき議論というべきでしょう。「一乗をうるは、阿耨多羅三藐三菩提をうるなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり」としますと、釈迦の法門はみな阿耨多羅三藐三菩提をめざし、涅槃界を求めているのではないでしょうか。どうして本願念仏の教えだけが真実であり、それ以外はそこに入らせるための方便と言えるのでしょう。
 この問いに答えるにはまたもや「自力と他力」に戻らなければなりません。曇鸞は『論註』の最後尾においてこう言っていました、「問ていはく、なんの因縁ありてか速得成就阿耨多羅三藐三菩提(速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得)をいへるや。答へていはく、論に五門の行を修して、もて自利利他成就したまへるがゆゑにといへり。しかるに覈(まこと)にその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり」と。いかにして速やかに阿耨多羅三藐三菩提をえられるか。『浄土論』には五念門を修めて自利と利他の行を成就することによりえられると書いてあるように思われる。しかし、よくよく「その本を求むれば」、弥陀の本願力によりえることができると天親は言っているのだ。これが曇鸞の結論でした。一見したところでは自力のようだが、実は他力によってこそえられるのだと。
 二乗の教えも、大乗聖道門の教えも、自力でさまざまな修行をつむことで阿耨多羅三藐三菩提にいたることができると説いているが、実を言えば、他力によりはじめてそこにいたることができるのだということです。阿耨多羅三藐三菩提とは究竟法身、すなわち真如であり、それは「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』)と言うしかないものです。「こころもおよばれず、ことばもたへた」ところへこちらから(これが自力でということです)尋ねていくことはできず、ただむこうから(これが他力です)思いもかけず到来するだけです。

タグ:親鸞を読む
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