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本文2 [『教行信証』精読2(その112)]

(5)本文2

 一乗の意味を確認するために『涅槃経』から引かれます。

 『涅槃経』にいはく、「善男子、実諦(実は真実、諦は真如。真実の教えのこと)は名づけて大乗といふ。大乗にあらざるは実諦と名づけず。善男子、実諦はこれ仏の所説なり。魔の所説にあらず。もしこれ魔説は仏説にあらざれば、実諦と名づけず。善男子、実諦は一道清浄にして二つあることなし」と。以上
 またのたまはく、「いかんが菩薩一実(ただひとつの真実で、一仏乗のこと)に信順する。菩薩は一切衆生をしてみな一道に帰せしめむと了知するなり。一道はいはく大乗なり。諸仏・菩薩、衆生のためのゆゑに、これを分かちて三つとす。このゆゑに菩薩、不逆に信順す(ただ一つの真実の教えに信順しそむかない)」と。以上
 またのたまはく、「善男子、畢竟(ひっきょう)に二種あり。一には荘厳畢竟(後に出てくるように、六波羅蜜のこと)、二には究竟畢竟(大般涅槃のこと)なり。一には世間畢竟、二には出世間畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗はなづけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ一切衆生悉有仏性と説くなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」と。以上
 またのたまはく、「いかんが一とする、一切衆生ことごとく一乗なるがゆゑに。いかんが非一なる、三乗を説くがゆゑに。いかんが非一・非々一なる、無数の法なるがゆゑなり」と。以上

 (現代語訳) 涅槃経にこうあります。善男子よ、真実の教えをなづけて大乗といい、大乗でないものは真実の教えとは言いません。善男子よ、真実の教えは仏の説かれるところであり、魔の説くものではありません。魔のとくことは仏の説かれることとは異なりますから真実の教えとは言いません。善男子よ、大乗であり仏説である真実の教えはただ一つのまじりけのないもので、二つあることはありません。
 またこうもあります。どうして菩薩はただ一つの真実の教えを信順するのかといいますと、一切の衆生はただ一つの道を行くしかないと菩薩は知っているからであり、その一つの道が大乗です。ただ諸仏や菩薩は衆生のさまざまな機をみて、それを三つに分けて説くだけで、だから菩薩はただ一つの真実の教えを信順しそむかないというのです。
 またこうもあります。善男子よ、真実の教えをつきつめると二種類になり、一つは荘厳畢竟で、もう一つは究竟畢竟であり、あるいはそれを世間畢竟と出世間畢竟ということもできます。荘厳畢竟とは六波羅蜜の行であり、究竟畢竟といいますのは、一切の衆生が得るところの一乗、すなわち涅槃のことです。一乗をなづけて仏性ということもできますから、わたしは一切の衆生にことごとく仏性ありと説くのです。一切の衆生にことごとく一乗があるのです。ただ衆生は煩悩に覆われてそれが見えないだけのことです。
 またこうもあります。どうして真実の教えはただ一つなのかといいますと、一切の衆生はただ一つの道で救われるしかないからです。ではどうして一つではないかといいますと、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三種類の教えがあるからです。ではどうして一つではなく、しかし一つでないこともないのかといいますと、機に応じて無数の教えがあるからです。

タグ:親鸞を読む
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