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本文4 [『教行信証』精読2(その118)]

(11)本文4

 一乗海の「一乗」につづいて、次に「海」についての注釈がはじまります。

 海といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修(ぼんしょうしょしゅう)の雑修雑善(ざっしゅぞうぜん)の川水(せんすい)を転じ、逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい)恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる、これを海のごときにたとふるなり。まことに知んぬ、経に説きて「煩悩の氷とけて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。以上
 願海は二乗(小乗の聖者、声聞と縁覚)雑善の中下の屍骸(しがい)を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心(ぞうどくざっしん)の屍骸を宿さんや。

 注 逆謗は五逆(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)と誹謗正法。闡提は一闡提のことで、快楽を追求するのみで、悟りを求める心のないもの

 (現代語訳) 一乗海というときの海とは、はるかな過去より今日まで、凡夫や聖人が自力で修めてきたさまざまな雑善の川の水が転じ、また逆謗や闡提といった悪人の数限りない無明煩悩の海水が転じて、本願の慈悲と智慧の限りない功徳の大宝海に成ることを、海のようだと譬えられているのです。それは経に「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」と説かれているのと同じことです。
 本願の海は声聞や縁覚の自力の雑善の屍骸を宿すことはありませんし、ましてや人間や天人の嘘偽りや毒のまじった善の屍骸を宿すことはありません。

 本願は一乗(たったひとつの乗りもの)であるとともに、海のようであるとされますが、ここではどうして海のようであるかが述べられます。それをひと言でいえば、海とは、あらゆるものを、それがどれほど穢れていようとも、どんなに濁っていようとも、いっさい嫌うことなく受け入れ、しかもそれを功徳の水に転じてくれるということです。『高僧和讃』(曇鸞讃)に「尽十方無碍光の、大悲大願の海水に、煩悩の衆流帰しぬれば、智慧のうしほに一味なり」とあるのはそれを詠っています。

タグ:親鸞を読む
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