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転ずるとは [『教行信証』精読2(その120)]

(13)転ずるとは

 さて「よろづのこと、みなもつてそらごと、たはごと、まことあることなし」にすぐつづいて「ただ念仏のみぞまことにておはします」とあります。もし「よろづのこと、みなもつてそらごと、たはごと」で「以上、終わり」でしたら、世のなか真っ暗闇ですが、「念仏のみぞまこと」であることでそこに救いの光が差しこみます。同じことがここでは「劫沙無明の海水」が転じて「劫沙万徳の大宝海水」となると言われています。もし「劫沙無明の海水」しかないとしますと、生きることは絶望でしかありませんが、それが「劫沙万徳の大宝海水」に転ずることで、生きることに希望の光が差してきます。
 さてしかし「劫沙無明の海水」が〈転じて〉「劫沙万徳の大宝海水」に〈成る〉とはどういうことでしょう。
 無明の海水が文字通り万徳の海水に変化するとしますと、そのときにはもう無明の海水はすっかりなくなり、みな万徳の海水になっているはずです。「そらごと、たはごと」が「まこと」に変化するのだとしますと、もう「そらごと、たはごと」はどこにもなく、みな「まこと」になっているはずです。でも、それは事実が直ちに否定してくれます。本願に遇い、名号を聞くことができましても、「そらごと、たはごと」の世界が「まこと」の世界に一変するわけではありません。「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と言わなければなりません。
 としますと無明が転じて功徳となるというのはどういうことか。「煩悩のこほりとけ、菩提のみづとなる」(『高僧和讃』)という譬えで考えてみましょう。
 氷が温度の変化で水となるということは、氷と水は見た目はまるで違っても、本来は同じであるということです。化学式で表しますと、どちらもH₂Oで変わりありません。としますと、氷は氷でありながら水であるということです。氷がとけて水になることに気づくことができますと、氷は氷のままであっても、それをすでに水とみることができます。これが「煩悩のこほりとけ、菩提のみづとなる」ということです。煩悩がすっかり消え、菩提が新しく生まれてくるわけではありません。煩悩はこれまで通り煩悩のままですが、それが菩提であると見ることができるのです。

タグ:親鸞を読む
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