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本願力 [『教行信証』精読2(その125)]

(18)本願力

 『論註』から海に関係する文が二つ引用されていますが、一つ目は阿弥陀仏の功徳が八つ上げられる中の最後の不虚作住持功徳についての文で(下巻にあります)、二つ目は浄土論の「天人不動の衆、清浄の智海より生ず」という偈を注釈する文です(上巻にあります)。二つ目の文については、大経の文との関連で検討しましたので、ここでは一つ目の文に着目しましょう。とは言うものの、浄土論の「仏の本願力をみそなはすに、まうあふてむなしくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」という文はすでに一度引用されていますので、その箇所でこの文の意味するところを考えました。ここでは別の角度から迫りたいと思います。
 本願力に遇うことで、かならずや煩悩の氷が解けて功徳の大宝海水となるということですが、天親は本願に遇うとは言わず、本願力に遇うと言います。曇鸞はそれに敏感に反応して、その違いを「もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力」と注釈してくれます。もとは法蔵菩薩の本願だが、それはおのずから阿弥陀仏の本願力となるということで、それを「願もて力を成ず、力もて願につく」と表現します。願は因として、かならず力という果となり、逆に、力が力としてはたらくことができるのは、その因として願があるからだということです。それをさらに「願、徒然ならず、力、虚設ならず。力、願あひかなふて畢竟してたがはず」と解説してくれます。
 さてしかし「願もて力を成ず」とはどういうことでしょう。本願は本願のままでいることができず、おのずから本願力となるということですが、それをどう理解すればいいでしょう。本願は、それがかりそめのものではなく正真正銘ならば、かならず相手に届く力をもつものであるということです。われらのもつ願いも、それが誰かに向けられたものである場合(誰かに幸せになってほしいと願う場合)、もしそれが本気であるならば、それはただ自分のこころの中にあるだけではなく、おのずから相手に届く力をもつことでしょう。願いは確かにこころの中に生まれますが、それがほんものであれば、こころの中にとどまることなく、相手に向かっていく力となります。もしそうでないなら、それは本気で願っていないということです。

タグ:親鸞を読む
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