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「対」と「即」 [『教行信証』精読2(その131)]

(5)「対」と「即」

 唯識派の「末那識(まなしき)」がそれを明らかにしてくれています。われらの意識には例外なく「わたし」の刻印が押されているということです。われらが何かをするときは、それが無意識でない限り、必ず「わたし」がするという意識が伴います。前にも言ったことがありますが、どれほど正気を失い、自分が誰かが分からなくなったとしても、「わたし」と「あなた」の区別だけは手放すことがありません。「オレは天皇だ」と錯乱する人も、オレとオマエの違いははっきりしています。
 何をするにせよ、それは自分がするのであり、つまり自力です。たとえ人に命じられてすることであれ、嫌だなあと思いながらも仕方なく腰を上げるのは自分であり、自分が腰を上げなければ何ごともはじまりません。逆に、人に命じてやらせることも、やるように命じるのは自分であり、自分が命じなければ何ごともはじまりません。その意味では、自分のすることに関しては、あらゆることが自力であると言うことができます。どこにも他力はありません。
 このようにすべてが自力でありながら、自力のままでそっくりそのまま他力であるということ、これが本願他力というときの他力です。われらが何かをするとき、それは「わたし」がそうしようと思ってしているということは天地がひっくり返っても確かですが、それは実はそうするべくしてそうしているということ、あるいは、見えない力でそうせしめられているということです。われらはすべて自力だと思っていますが、そしてそれは紛れもなく事実ですが、それがそのままで他力であると気づくこと、これが本願他力です。
 したがって「自力対他力」というよりも「自力即他力」というべきです。あるいは「自力or他力」ではなく「自力and他力」ということです。自力聖道門と他力浄土門の対比についてはこう言えばいいでしょうか、他力の事実に気づくことなくただ自力しかないと思っているのが自力聖道門であるのに対して、自力は自力のままで同時に他力であると気づいているのが他力浄土門であると。

タグ:親鸞を読む
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