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疑うということ [『教行信証』精読2(その133)]

(7)疑うということ

 「自力対他力」といえば、「自力」さもなくば(or)「他力」と受け取られるように、いまの「信対疑」も、「信じる」さもなくば(or)「疑う」というように受け取りますと、信と疑を同じ平面上に並べた上で、どちらかを選ぶということになります。しかし本願他力は、自力に対する他力ではなく自力をも包摂する他力であったように、本願の信は、疑に対する信ではなく疑をも包みこむ信です。「信or疑」ではなく「信and疑」です。さてしかしそれはどういうことか。
 われらはいつも疑いのなかにあります。いつも何かの問いの前にたたずんでいるということです。もう疑いも問いもないという人がいるでしょうか。無量寿経の印象的なことばを上げますと、「田あれば田を憂い、宅あれば宅を憂い、牛馬六畜、奴婢、銭財、衣食、什物(じゅうもつ、家財道具のこと)、またともにこれを憂う」とありますが、この「憂う」というのは、いまはこれらの物をたよりにしているが、いつかなくなるのではないかと「疑う」ということです。
 疑いの震源は「わたし」です。「わたし」が何かを判断しようとしますと、あれもこれも疑わしくなってきます。なぜかといいますと、「わたし」と何かの間には多かれ少なかれ隙間があり、そこに疑いが忍び込んでくるのを防げないからです。判断するとは分別することであり、分別するとは隙間を作ることに他なりません。ですから、どれほど確からしいことも、疑えないことはありません。デカルトはそれを実際に思考実験してくれましたが、あらゆることを疑い尽した果てに残ったのは「わたし」だけでした。「われ思う(疑う)、ゆえにわれあり」です。
 先ほどは、あらゆることが自力であると言いましたが、今度は、あらゆることが疑わしいと言わなければなりません。さてしかしそうしますと本願の信とは何か。あらゆることが疑わしい中で、本願だけは確かだということでしょうか。そうではありません。「わたし」が本願について判断しようとする限り、本願もまた疑わしいと言わざるをえません。「わたし」と本願との間にも隙間があるからです。

タグ:親鸞を読む
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