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正信偈の趣旨 [『教行信証』精読2(その141)]

(2)正信偈の趣旨

 これまでのところで行巻はすべて終わったかと思いきや、親鸞はその後に正信念仏偈をおきます。正信念仏偈とは「正信し、念仏する詩」ということであり、また「念仏を正信する詩」と取ることもできるでしょうが、ともかく本願の行信を讃嘆する詩ということです。
 どうしてこれをここにおくかをこの序文は述べるのですが、まず言われるのは本願の行信(行と信は弥陀からの賜りものとしてひとつです)に真実と方便があるということで、このことはこれまではっきりと言及されることはありませんでした。ここにきてはじめてこの区別が登場するのですが、しかしどう違うかが論じられるわけではありません。ただ真実の行信について、「その真実の行の願は、諸仏称名の願なり。その真実の信の願は、至心信楽の願なり」と述べられ、そしてその機については「一切善悪大小凡愚」であるとされ、その往生は「難思議往生」で、さらに仏土は「報仏・報土」であるとされます。これらはみな方便の行信との対比で述べられているのですが、それについて論じるのは最終巻である化身土巻の課題となります。
 さて親鸞としては、真実の行信を賜った恩を知り、その徳に報じて偈をつくろうというわけですが、それに際して曇鸞の『論註』を参照します。ここに引用されたのは、『浄土論』冒頭に「世尊、われ一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」とあるのを注釈する文です。天親は本願の行信を賜ったことの「恩を知りて徳を報」じようとして、「理よろしくまづ啓すべし」と考え、釈迦如来に対して「世尊、われ一心に」と述べているのだと曇鸞は解しました。また本願一乗海を讃えるという大事業をなしとげるには、釈迦如来の力に支えられることなくしてはできることではありませんから、書の冒頭に「世尊よ」と呼びかけているというのです。
 そのようにわたし親鸞も「仏恩の深遠なる」を思い、「大聖の真言に帰し、大祖の解釈を閲して」、これから誓願不可思議一実真如海を讃嘆する正信念仏偈を謳いあげていこうと思うというわけです。親鸞としては天親の願生偈を念頭において、正信偈をつくっていることがよく伝わってきます。

タグ:親鸞を読む
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