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本文2 [『教行信証』精読2(その142)]

(3)本文2

 さて正信偈に入りまして、その冒頭の2句です。

 無量壽如来(限りないいのちの如来、アミターユス)に帰命し、
 不可思議光(不思議なひかりの如来、アミターバ)に南無したてまつる。
 (帰命無量寿如来 南無不可思議光)。

 (現代語訳) わたしは無量寿如来に帰依し、不可思議光仏に帰命します。

 この2句は天親の願生偈冒頭の「世尊、われ一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」にあたるもので、帰敬偈とよばれますが、これから述べられる正信偈のすべてがここに凝縮されていると言えます。
 言うまでもないことながら、帰命無量寿如来も南無不可思議光も南無阿弥陀仏ということです。阿弥陀仏とはアミターユス、アミターバがもとで、まずアミタとはa-mitaで、aは無、mitaは量を意味し、したがって無量ということです。そしてアミターユスとはアミタ・アーユスすなわち「無量のいのち」、アミターバとはアミタ・アーバすなわち「無量のひかり」を意味します。また南無はナモ(namo)の音訳で、帰命する(命に帰す、勅命にしたがう)という意味です(インドではいまもナマステが「こんにちは」などの挨拶のことばとして使われています)。ですから南無阿弥陀仏とは帰命無量寿如来であり、また南無不可思議光ということです。
 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」の2句に正信偈のすべてが凝縮されていると言いましたが、としますと正信偈は、ひいては浄土の教えそのものが南無阿弥陀仏の六字に収まるということです。南無阿弥陀仏はたんに「阿弥陀仏に帰命すること」を意味するのではありません。南無とは一人称単数を主語とする動詞ですから、このわたしが阿弥陀仏に帰命すると宣言することばです。南無阿弥陀仏はわたしの信心の表明です。「わたしは無量のいのちである阿弥陀仏に帰命します」というこの表明に浄土の教えのすべてがつまっているということ、ここにじっと思いを潜めてみましょう。

タグ:親鸞を読む
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