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本文5 [『教行信証』精読2(その202)]

(12)本文5

 次は源信を讃える偈です。まずは前半4句。

 源信ひろく一代の教をひらきて、ひとへに安養に帰して一切をすすむ。専雑1(せんぞう)の執心、浅深を判じて、報化二土2まさしく弁立せり。(源信広開一代教、偏帰安養勧一切、専雑執心判浅深、報化二土正弁立)

 注1 専修(もっぱら他力念仏のみを修める)と雑修(様々な自力の行を修める)。
 注2 真の浄土である報土と方便の浄土としての化土。

 (現代語訳) 源信和尚は釈迦一代の教えを広く学び、結局のところ偏に安養浄土の教えに帰してみなに勧められました。専ら念仏の信心に深く執心するのと、万善諸行を浅く修するのとを比べて、前者によってのみ報土往生ができ、後者では化土の往生にとどまることを明らかにしました。

 往生要集を読みますと、源信が如何に博覧強記の人であるかがよく分かります。若い頃、南都の学僧たちと渡り合って、その学識の深さを思い知らしめたというエピソードがありますが(応和の宗論)、さもありなんと思わせられます。とにかく引用される経論釈の数の多さには舌を巻きますが、そうした仏道修行の末に彼がたどり着いたのは浄土の教えでした。かくして「ひとへに安養に帰して一切をすすむ」ために著されたのが往生要集です。第1章で穢土を厭離すべきことが説かれ、第2章で浄土を欣求すべきことが説かれます。そして浄土に往生するための念仏の道について以下の章においてさまざまな角度から詳しく説いていくのです。
 さてここで親鸞が注目するのが、専修と雑修の違い、そしてそれに対応するものとしての報土往生と化土往生の違いです。他力念仏によってはじめて報土に往生でき、自力の万善諸行によるのでは化土の往生にとどまるということです。この相違の大本は他力すなわち仏智不思議のはたらきを信ずるか、それとも仏智不思議を疑い、自力により往生と成仏を手に入れようとするかどうかというところにあります。それが報土往生と化土往生の違いとなってあらわれるというのですが、さてこの報土と化土をどのように理解すればいいでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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