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本文6 [『教行信証』精読2(その205)]

(15)本文6

 源信讃の後半4句です。

 極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみたてまつらずといへども、大悲ものうきことなく、つねにわれをてらしたまふといへり(極重悪人唯称仏、我亦在彼摂取中、煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我)。

 (現代語訳) どうしようもない悪人であるわれらはただ仏をたのみ、仏のみなを称するしかありません。わたし源信もまたまぎれもなく弥陀の摂取のなかにあるにもかかわらず、煩悩がわがまなこを遮ってそれを目の当たりにすることはできません。しかし弥陀の大悲はいつもたがうことなくわたしを照らしまもってくださっています、と源信和尚は言われます。

 最後の3句は実に印象的で、親鸞もこのことばをいろいろなところで取り上げています。この3句の間の関係に特徴があり、第1句と第2句が「あれども」と逆接で繋げられ、さらに第2句と第3句も「いへども」と逆接の関係になっています。つまり、第1句が第2句で否定され、そしてまた第2句が第3句で否定されますから、二重否定によって最初に戻るという構造になっているのです。「われらは弥陀の本願に摂取されている」、but「それを知ることはできない」、but「弥陀の大悲はわれらを照らしまもっている」という具合で、まず摂取不捨を事実として上げ、しかしそれをわれらはどのようにして知るのかと疑問を呈し、さらに、いや、それは紛れもない事実だと結論するのです。
 2句目の疑問が大事です。これまでの流れで言いますと、われらは人知の世界のなかにどっぷりつかっていて、その世界しか知ることができません。われらにとって人知の世界が唯一の世界ですから、その外に仏智の世界があるなどと知りようがありません。ですから、誰かが仏智の世界のことを話しても(「われまたかの摂取のなかにあり」というように)、そんな世界があるということをどのようにして知ることができるのかという疑問をもつのはきわめて自然です。まだ見ぬ世界があるだろうと想像することはできます。これまで見る機会がなかっただけで、見ようと思えば見ることができる世界については、その存在を疑う理由はありません。でも、いまの場合は、われらにはどうあっても見ることが不可能な世界が問題となっています。ですから、そんな世界が存在するとどういう根拠で言うことができるのかということが疑問となるのです。

タグ:親鸞を読む
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