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仏智の扉があく [『教行信証』精読2(その206)]

(16)仏智の扉があく

 こんな譬えはどうでしょう。ある変わった人がいて、1たす1は3であると思い込んでいるとしましょう。1たす2は4であり、2たす3は6である、という具合になっているのです。その人に1たす1は2であり、1たす2は3であり、2たす3は5であると教えても、「いや、それは間違いだ」と主張して譲りません。突拍子もない話ですが、その人は1たす1は3である世界に生きていて、それ以外の世界を知らないのです。いや、知りようがありません、その人には1たす1は3なのですから。その人にとって1たす1は2であるというのはただの間違いにすぎません。
 さてでは、その人が1たす1は3である世界とは別に1たす1は2である世界が存在することに気づくことはないのでしょうか。それがあるのです。1たす1は3の世界から1たす1は2の世界に出ることはできませんが(それは自分を根底から否定することですが、自分で自分を全否定することはできません)、逆に、1たす1は2の世界の方がふいに1たす1は3の世界に姿をあらわすことがあるのです。自分からそちらに出ることはかないませんが、向こうから思いがけずやってくることがあり、そのときはじめて1たす1は2の世界があることに気づくのです。
 そのように、人知の世界から仏智の世界へ出ることはどうあってもできませんが、仏智の世界がとつぜん人知の世界に姿をあらわすことがあり、そうしてはじめて仏智というものに気づくのです。人知と仏智との間には扉があり、それを人知の側から開けることはできません。ところがその扉が仏智の側から開くことがあるのです。そのときこれまでまったく切り離されていた仏智と人知がひとつにつながることになります。その喜びが「煩悩まなこをさえてみたてまつらずといへども、大悲ものうきことなく、つねにわれをてらしたまふ」ということばとなってほとばしり出るのです。
 仏智に気づかせてくれるのも仏智のはたらきです。このことを指して「賜りたる信心」というのです。

タグ:親鸞を読む
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