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永遠と「いま」 [『教行信証』精読2(その214)]

(24)永遠と「いま」

 「念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」は紛れもなく法然という「よきひとの仰せ」ですが、それを親鸞が「信ずるほかに別の子細なき」というのは、それが「よきひとの仰せ」であると同時に、弥陀自身の「念仏してわれにたすけられまひらすべし」という仰せであるからです。親鸞にとって法然がどれほど敬愛すべき「よきひと」であるとしても、ただそれだけでその仰せを「信ずるほかに別の子細なき」であり、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」と言えるものではありません。
 そうではなく、「よきひとの仰せ」が実は「弥陀自身の仰せ」であるからこそ、それを「信ずるほかに別の子細なき」と言えるのです。「よきひとの仰せ」を通して「弥陀自身の仰せ」が聞こえるからこそ、「よきひとの仰せ」に「すかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」となるのです。親鸞にとって法然のことばが「よきひとの仰せ」であるから、「弥陀自身の仰せ」としての本願を信じるのではなく、法然のことばを通して「弥陀自身の仰せ」が聞こえるから、法然のことばが「よきひとの仰せ」と言えるのです。
 それを裏返していいますと、「弥陀自身の仰せ」は、それとして直に聞こえるのではなく、「よきひとの仰せ」を通して聞こえるしかないということです。それは、「弥陀の仰せ」は永遠なるものですが、「よきひとの仰せ」は「いま」聞こえるものであり、永遠なるものは「いま」聞こえるというかたちでしか姿をあらわすことができないということです。なぜそうなるかといいますと、われらは永遠に生きるものではなく、時間のなかで生きるしかないからです。時間のなかで生きるわれらには、永遠なるものは「いま」姿をあらわすしかありません。
 永遠は「いま」はじまるのです。

                (第12回 完)

タグ:親鸞を読む
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