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無問自説 [『阿弥陀経』精読(その3)]

(3)無問自説

 『大経』では阿難が問い、『観経』では韋提希が問うて、それに釈迦が答えるというかたちで教えが説かれていくのですが、この経では誰も問うことなく、釈迦がいきなり語りだします、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ」と。これはどういうことでしょうか。無問自説と言っても、誰もいないところで釈迦が一人語り出すということではありません。その場には千二百五十人もの弟子衆がいて、その中の一人、舎利弗に向かって語っていくのです。これから読んでいくと分かりますが、この経には、これでもかというぐらい「舎利弗よ」「舎利弗よ」という呼びかけが出てきます(数えてみましたら、短い経のなかに33回もあります)。
 舎利弗が何かを問うたわけではないのに、釈迦は「舎利弗よ」と語り出す、これを無問自説と言っているのですが、これはどういう状況でしょうか。それを舎利弗から無言の問いかけがあったと考えたらいかがでしょう。釈迦が会座の中の舎利弗の様子を見ていると、何かわだかまりを抱えて、それを問いたそうな素ぶりなのだが、しかし舎利弗はそれをことばにすることができない。そこで釈迦は舎利弗のこころの内を察して、舎利弗の疑念に応えるように語り出したということではないでしょうか。
 突然ですが、ジャック・デリダのことを思い出しました。フランスの哲学者でポスト構造主義の代表的な思想家ですが、彼がどこででしたか「すべての発信は返信である」というおもしろい発言をしています。誰かに電話をして「アロー」と呼びかけるのは、それに先立ってその誰かから密かに「アロー」と呼びかけられているからだというのです。むこうから問いかけられているから、それに応答して発信するのであり、したがってそれは返信であるということです。
 釈迦が突然「舎利弗よ」と語り出すのは、実はそれに先立って舎利弗から釈迦への問いかけがあったからであり、釈迦はそれに応答しているのに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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