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真実の願い [『阿弥陀経』精読(その8)]

(8)真実の願い

 宮沢賢治の有名なことばに「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」というのがあります(『農民芸術概論綱要』)。このことばは「個人の幸福」ではなく「世界ぜんたいの幸福」が「われらの真実の願い」であると言っており、これが「われらのなかに真実の願いがある」という語り方です。「真実の願い」を事実として語る語り方です。
 これに対しては、われらのなかにほんとうにそんな願いがあるだろうかという疑問がおこるかもしれません。われらが何を願うにせよ、それぞれの「わたし」が願うのですから、あくまでも「わたしの幸福」が最上位におかれ、「他の人の幸福」や、ましてや「世界ぜんたいの幸福」などは二の次、三の次となるのではないかと。それには次のように反論されます、実際には「自分の幸福」が上におかれるかもしれないが、「みんなの幸福」という真実の願いがないわけではなく、宮沢賢治の言うように、世界ぜんたいが幸福になることを願うのがわれらの真実の願いであることは間違いない、と。これが「真実の願い」を事実として語る語り方です。
 これに対して「真実の願い」を物語として語る語り方があります。それが法蔵菩薩の物語で、「真実の願い」は「わたしの願い」としてではなく「ほとけの願い(本願)」としてあると語るのです。
 ここで考えなければならないのは、「真実の願い」を語るのに、どうしてそれを事実として語るのではなく、「ほとけの願い」という物語を必要とするのかということです。少し前にこんなことを言いました、釈迦が舎利弗に無問自説したのは、舎利弗から無言の問いかけがあったからに違いないと。舎利弗はこれまで釈迦から聞いた教えにこころひかれながら、しかしどうにも咀嚼しきれないことがあったのでしょう、それが顔に現れていた。それを見た釈迦が「舎利弗よ」と語りかけたのですが、そのとき釈迦が考えたのは、事実として語るのではストンと腹に落ちないことも、物語として語ることで自然と胸に沁みるのではないかということです。

タグ:親鸞を読む
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