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はたらき [『阿弥陀経』精読(その15)]

(6)はたらき

 この段を一読して感じるのは、極楽国土は何ともさまざまな麗しい音声に満ち満ちた世界だということです。前段では四宝や七宝、あるいはさまざまな色の蓮華が放つ美しい光が印象的でしたが、ここではそれに代わって麗しい音声が主役となります。
 極楽国土と言われますと、どうしても実体としてどこかに存在する世界を思い浮かべてしまいますが、これまで検討してきましたように、そこがどれほど素晴らしい世界であっても「ここ」と無縁であっては何の意味もなく、「ここ」にどのような「はたらき」をするかが本質的なことです。つまり極楽国土とは「実体」(仏教では「体」とよばれます)ではなく「はたらき」(「用」‐ゆう-です)であるということ、ここにポイントがあります。先の大円と小円の関係でいいますと、極楽国土という大円は娑婆世界の小円をすっぽり包み込み(摂取ということばで表現されます、「正信偈」に「摂取の心光、つねに照護したまふ」とあります)、つねにはたらきかけつづけているということです。
 その「はたらき」をするのが光とそして音声です。
 この文のなかには「天の楽」、そして「白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥」の声、さらに「微風吹きて、もろもろの宝行樹および宝羅網を動かす」音が出てきますが、それを聞くものは「みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず」るという「はたらき」をしています。この音声は極楽国土にだけ聞こえるわけではなく、他の仏国土まで(したがってわれらの娑婆世界にも)届いていることでしょう。なにしろ極楽国土からしますと、他の仏国土との境界線などどこにもなく、ただ大きな円が広がっているだけですから。
 それを示唆するのが「その国の衆生、つねに清旦をもつて、おのおの衣裓をもつて、もろもろの妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる」という一文です。その国の衆生(次の段に出てくる極楽国土の聖聚です)は、日々、他の仏国土との間を行き来して、極楽国土の妙華をもって諸仏を供養しているのですから、彼らは光と音声も身にまとって十方微塵世界を往来しているに違いありません。極楽国土に響いているさまざまな麗しい音声は、われらの娑婆世界にまでちゃんと届いているのです。ただそれに気づくかどうかだけが問題です。

タグ:親鸞を読む
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