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名号とは [『阿弥陀経』精読(その21)]

(2)名号とは

 まずは名号ということばの意味を確認しておきましょう。前の段において「かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する」という問いに対して、「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす」と答え、さらに「かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく」と答えていました。このように名号とは仏名であることは明らかですが、仏名ならばただの「阿弥陀仏」でよさそうなのに、「南無阿弥陀仏」とされるのはどういうことでしょう。この「南無阿弥陀仏」が登場するのは『観経』で、『大経』にもこの『小経』にも一度も出てきませんが、しかし名号といいますと「南無阿弥陀仏」であるのは当たり前で、誰もそのことを疑う人はいません。ここにはどんな事情があるのでしょう。
 『観経』に「南無阿弥陀仏」が登場するのは、下品の人すなわち悪人が命終らんとするに臨んで善知識に勧められ、「南無阿弥陀仏」を称するというかたちで出てきます。つまり仏をこころに念ずるだけなら「阿弥陀仏」でいいのですが、名号を口に称えるとなりますと「阿弥陀仏」の前に「南無」をつけないとおさまりが悪いということです。「南無」とはサンスクリットの“namo”の音訳であり、その意味は「帰命する」ということです。したがって「南無阿弥陀仏」とは「わたしは阿弥陀仏に帰命します」と宣言することです。われらは「南無阿弥陀仏」をひとつの名詞であるかのように思っているきらいがありますが、実は「わたし」を主語とする文です。念仏の意味が「仏をこころに念ずる」ことより「仏の名を口に称える」ことに重心が移っていきますと、それに伴って名号も「南無阿弥陀仏」でなければならなくなったのです。
 さてこれで話が終わるわけではありません。親鸞に至ってこの「南無阿弥陀仏」の意味がさらに深く掘り下げられることになります。「南無阿弥陀仏」は「わたしは阿弥陀仏に帰命します」という宣言である前に、「阿弥陀仏に帰命せよ」という呼びかけであると解釈されるのです(『教行信証』「行巻」の六字釈)。むこうから「阿弥陀仏に帰命せよ」と呼びかけられるから、それに対してこちらから「阿弥陀仏に帰命します」と応えるのだということです。

タグ:親鸞を読む
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