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招喚の勅命 [『阿弥陀経』精読(その22)]

(3)招喚の勅命

 われらは「南無阿弥陀仏」といいますと、こちらから称えるものと思い込んでいるところがありますが、それよりも前にむこうから聞こえてくるものであるということ、ここに親鸞は光を当ててくれたのです。むこうから「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰命せよ)」と聞こえてくるから、それにこだまするようにこちらから「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰命します)」と称えるのであり、ここには呼応の関係があるということを明らかにしてくれたのです。
 親鸞は「阿弥陀仏に帰命せよ」という呼びかけを「本願招喚の勅命」と言いますが、それをぼく流に平たく言い換えますと、「帰っておいで」の声となります。本願が「帰っておいで」という声となってわれらのところにまで来てくれているのです。そしてこの声が聞こえれば、そのこと自体が何より嬉しく、おのずから「はい、ただいま」と応えることになりますが、それがわれらの「阿弥陀仏に帰命します」という応答に他なりません。第18願成就文に「聞其名号、信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜し)」とあるのはそれを言っているのです。
 そしてもうひとつ大事なこととしまして、「名号を称えること」に〈よって〉往生するのではありません、「名号を称えること」そのことが取りも直さず往生していることの表明に他ならないのです。南無阿弥陀仏(「帰っておいで」)の声が聞こえ、それに南無阿弥陀仏(「はい、ただいま」)と応答するとき、そこにはすでに浄土が開示されているのですから。ふたたび第18願成就文ですが、その後半に「願生彼国、即得往生、住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」とありますのは、そういう意味です。
 さてしかし、そうしますと、『阿弥陀経』に「その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖聚と現じてその前にましまさん。この人終らん時、心顚倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」とあるのはどういうことかという疑問が大きく立ちはだかります。本願に遇い(南無阿弥陀仏の声が聞こえ)、念仏申すとき(南無阿弥陀仏と応えるとき)、そこにすでに浄土が現在しているはずなのに、どうして「命終の時に臨みて」となるのか、と。

タグ:親鸞を読む
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