SSブログ

二河白道 [『観無量寿経』精読(その63)]

(8)二河白道

 至誠心、深心ときて、次は回向発願心ですが、善導の『観経疏』はここでもまた光り輝いています。「二河白道の譬え」です。
 水火の二河(貪欲・瞋恚の煩悩)に前方を阻まれた旅人はこう思念します、「われいま回(かえ)らばまた死せん、住(とど)まらばまた死せん、去(ゆ)かばまた死せん。一種として死を勉(まぬか)れざれば、われ寧(やす)くこの道(白道)を尋(たず)ねて前(さき)に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず度すべし」と。かえるも死、止まるも死、行くも死という三定死は、もはや自分では自分を如何ともしがたい、己が己を救うことは不可能であるという「機の深信」をあらわしていると見ることができます。そのとき「すでにこの道あり、かならず度すべし」という思いが起るのが回向発願心で、浄土に生まれたいと切に願う心です。
 ただ回向発願心ということばには細心の注意が必要です。このことばはどうしても「われら」が回向し、「われら」が発願するというニュアンスを帯びてしまうからです。善導は回向発願心について「かならず須らく決定真実心のうちに回向し願じて」とそのニュアンスで注釈していますが、親鸞はここでもこの文を「かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須(もち)ゐて」と独自の読みをします。回向するのも発願するのも「われら」ではなく「如来」であると読むのです。浄土に生まれたいと切に願うのは「われら」に違いありませんが、「われら」が往生を願うことができるのも、その前に「如来」がわれらの往生を願ってくれているからであると理解するのです。
 それが善導にとっても正しい読みであることは、二河白道の譬えのなかで、東の岸から「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん」という釈迦の声が、そして西の岸から「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん」という弥陀の声が旅人に聞こえるとあることから了解できます。旅人が「すでにこの道あり、かならず度すべし」と思えるのは、釈迦の「行け」という発遣の声と弥陀の「来れ」という招喚の声が聞こえているからこそのことです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。