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なんぢ一心正念にしてただちに来れ [『観無量寿経』精読(その64)]

(9)なんぢ一心正念にしてただちに来れ

 これまで「機の深信」を通してはじめて「法の深信」に至ると述べてきましたが、その具体的な姿がここに示されています。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と気づかされること(機の深信)が、どうして「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」という気づき(法の深信)に至るのか、それがこの譬えでくっきりと見えてきます。
 かえるも死、止まるも死、行くも死というのは、どうにもたすかりようのない自分に目覚めること、すなわち「機の深信」ですが、この目覚めは自分のなかから起ることはありません。それは外からやってくるしかありませんが、「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん」という釈迦発遣の声と、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん」という弥陀招喚の声がそれです。後ろから「行け」という声がし、前から「来れ」という声が聞こえてきて、もうこの道を行くしかたすかりようがない身であることにはっきり目覚めるのです。
 このように見てきますと、「機の深信」を通してはじめて「法の深信」に至るのは間違いありませんが(そして、このことによりドグマティズムを免れることができますが)、しかし同時に「法の深信」があるからこそ「機の深信」があることも了解できます。どうにもたすかりようのない身であるという気づきから、この道を行けば必ずたすかるという気づきに至るのですが、と同時に、「一心正念にしてただちに来れ」という弥陀招喚の声が聞こえてはじめて、どうにもたすかりようのない自分に目覚めるということもできます。かくして「機の深信」と「法の深信」はひとつであると言わなければなりません。
 たすかりようのない身であるという気づきと、弥陀の本願によって必ずたすかるという気づきはひとつであり、一方の気づきはつねに他方の気づきをともなっているのです。「機の深信」だけがあって「法の深信」がないということも、「法の深信」だけがあって「機の深信」がないということもありません。この二つは一体不離です。「煩悩即菩提」に大乗仏教のエッセンスがあると言われますが、煩悩の気づきが「機の深信」であり、菩提の気づきが「法の深信」ですから、「煩悩即菩提」とは「機の深信」即「法の深信」ということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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