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わたしのいのち [『ふりむけば他力』(その125)]

(6)わたしのいのち

 「無量のいのち」とは何か。親鸞はそれを「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」(『歎異抄』第5章)と分かりやすく言い替えてくれました。こうして話は「はじめに」で述べたことに戻ってきました。
 われらはみな「わたしのいのち」を生きていると思っています。そしてすべては「わたしのいのち」あってのものだねであり、「わたしのいのち」は他のあらゆるいのちより優先されます。これはもうそれが正しいとか間違っているとかの問題ではなく、われらが生きることの大前提となっているということです。かくして「わたしのいのち」は否応なく他のいのちたちと対立することになります。どれほど他のいのちたちと親密にしているとしても、それは「わたしのいのち」にとって有益であるからであり、そうではないとなった途端に容赦なく切り捨てられます。ところがその「わたしのいのち」はこれまた否応なく他のあらゆるいのちたちとつながりあっており、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟」であるという気づきがあります。
 これが、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「無量のいのち」であるという気づきです。
 いま、コロナ禍の中で女性や若者の自殺が増えているそうです。また、少し前になりますが、ALSを患う女性が医師の手を借りて安楽死したということが大きな話題となりました。そしてこの間のことですが、学生時代からの親友が、最後は人の手を煩わせなくて済むように自分を始末したいと思っているとポロッと漏らして驚かされました。この本の終わりにあたり、自殺・安楽死(これも自殺の一種でしょう)について考えておきたいと思います。親友にはその場でぼくの思いを伝えようとしましたが、酒の席だったこともあり、どうもうまくいきませんでした。そこであらためて彼に語るという形で論じておきたいと思います。
 自分のいのちを人の手を煩わせないで済むようにうまく始末したいという思いは、人の世話になりながら生き永らえるのは見苦しいことであり、自分はそんな最後を迎えたくないという感覚から出てきます。そしてそのさらに背後には、このいのちは「わたしのいのち」であり、「わたしのいのち」をどのように始末するかは自分の裁量に任されているという思いがあります。

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