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「きみ一人のいのち」か [『ふりむけば他力』(その126)]

(7)「きみ一人のいのち」か

 これに対するぼくの最初の反応は、「きみにとっては“わたしのいのち”だが、きみの奥さん、子どもたちはどうなる。“きみのいのち”は“きみ一人のいのち”だろうか」というものでした。自分のいのちを「わたしが私有するいのち」と思うのは、ただ一人の例外もなくそうでしょう。先ほど言いましたように、それは正しいとか間違っているとかいうことではなく、もうわれらが生きる大前提です。ところが釈迦という人はこんなふうに言います、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『ダンマパダ』第5章)と。
 釈迦はこのように自分のいのちは「わたしの私有するいのち」ではなく、子も財も「わがもの」ではないと言うのですが、これをどう理解すべきでしょう。
 釈迦は「わがもの」などというものは存在しないから、その思いからきれいさっぱり離脱せよと言っているのでしょうか。もしそうでしたら、その時点でぼくはもう釈迦についていくことはできません。そうではなく、われらは自分のいのちや子や財を「わがもの」として私有してそれに何の疑問も感じていないが、それは囚われであることに気づくべきであると言っているに違いありません。しばしば仏教は「われ」や「わがもの」の観念から解脱するべきであると説くとされますが、それは土台無理なことです。われらの生活のすべてが「われ」と「わがもの」の観念(物語)の上に成り立っており、もしそれが崩れたら、生きることそのものが崩れます。釈迦はそれらの観念を捨てよなどという無茶なことを言っているのではなく、われらはそれらの観念に囚われていることに気づけと説いているのに違いありません。
 「われ」や「わがもの」の観念はわれらがこの世界を生きるために仮構(仮説)されたものであるにもかかわらず、実際に世界がそのようになっていると思い込むこと、この囚われに気づくことが肝要であると言っているのです。

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