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BLACK LIVES MATTER ! [『ふりむけば他力』(その127)]

(8)BLACK LIVES MATTER!

 「わたしの私有するいのち」に戻ります。われらはみなそのように思って生きています。われらが生きるのは「わがいのち」を生きることです。ただそのとき、われらが「わがいのち」を生きていると思うのは、この世を生きる上での約束事にすぎないという気づきがあるかどうか。もしその気づきがなければ、「わがいのち」をどのように生きようが自由であって、誰もそれに対して口をさしはさむことはできないと思い、そのことに何の疑問ももつことはないでしょう。
 その気づきがあっても「わがいのち」を生きるしかありませんが、でも同時にそのことにどこか後ろめたさを感じ、「これはわがものだから、自分の裁量でいかように処分しようが勝手だ」と思うことはなくなるのではないでしょうか。「わがいのち」は仮構されたものということは、それには外部があるということであり、その外部(「ほとけのいのち」)から「われらは“わがいのち”に囚われている」という気づきがもたらされるということです。
 もうひとつ、「わがいのち」は仮構されたものであるにもかかわらず、それに囚われているということに関わって、われらの差別の心について考えておきたいと思います。
 アメリカで“BLACK LIVES MATTER!”(黒人のいのちは大事だ)のスローガンのもとに、われらの内なる差別意識に対する厳しい問題提起がありました。われらには否応なく差別の心があります。それは「わがいのち」を生きることと直結していて、「わがいのち」を生きることは「他のいのち」よりも「わがいのち」を優先することに他なりませんから、そこから「他のいのち」に対する差別の心が生まれてくるのは必定です。したがってわれらが「わがいのち」を生きざるをえない以上、否応なく差別の心をもつことになるのですが、ただそのことの気づきがあるかどうか。
 もし気づきがなければ、人を差別していることに問題意識をもつことはありません。しかし気づきがありますと、人を差別しながら、それに慚愧の念を懐くことになります。気づきがあろうがなかろうが、人を差別していることにおいて何の違いもありませんが、それを何とも思わないか、それとも恥ずかしさを感じるかで道が分かれることになります。わが内なる差別の心に気づきますと、その心が消えるわけではありませんが、それをカッコに入れることができるようになるのです。

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