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おわりに [『ふりむけば他力』(その128)]

(9)おわりに

 他力に遇うということ、気づくということについて考えてきましたが、この本のタイトルが「ふりむけば他力」であることを述べて終わりにしたいと思います。
 ぼくは中学・高校を東大寺が経営する学校で過ごしましたので、毎朝、南大門をくぐり、仁王さん(あの運慶・快慶の金剛力士像です)に挨拶しながら登校しました。南大門が校門のようなもので、毎朝「よし、これから門に入ろう」と思ってくぐるわけですから、門はいつもぼくの前にそびえたっていました。このように門は普通ぼくらの前にあるものです。ところが他力(気づき)の門は、不思議なことにいつも後ろにあります。その門をくぐってから、はじめて門に出あうのです。ふと振り返ってみるとそこに門があり、そのときにはすでに入ってしまっている、これが他力の門です。
 むかし「ふりむけば愛」という映画がありました。わが妻は山口百恵・三浦友和のファンで、二人が主演する映画がかかると名古屋まで観にいっていたのですが、そのなかにこの映画があったのです。内容はよくある青春純愛もので、どうってことはありませんが、「ふりむけば愛」というタイトルは秀逸だと思いました。愛は、こちらからそれをつかみとろうとしても思うようにはいかず、あるときふと、もうすでに愛のなかにあることに気づくものです。これから愛のなかに入っていくのではなく、気がついたらもうすでに愛のなかにいる、ですから「ふりむけば愛」です。同じように、他力も、これからそこに入っていくのではなく、気がついたらもうすでにそのなかに入ってしまっている、ですから「ふりむけば他力」です。
 ふりむけば他力のなかにあった。そのとき「ああ、ありがたい」という思いがほとばしります。この思いは、これまでずっとその縁がなかったが、いま「たまたま」そのご縁にめぐりあうことができたという驚きであり、そして慶びです。親鸞はその慶びを『教行信証』の「総序」で「たまたま行信(気づきです)を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と言い、また「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と述懐しています。「南無阿弥陀仏」とはこの「ああ、ありがたい」という思いの表白に他なりません。             
                (完)

 「ふりむけば他力」が完結しました。次は「『歎異抄』ふたたび」です。

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