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難中の難、これに過ぎたるはなし [『歎異抄』ふたたび(その10)]

(10)難中の難、これに過ぎたるはなし

 まだ知らない人に自分が知っていることを伝えるのも難しい場合がありますが、まだ目覚めていない人に自分の目覚めを伝える難しさは、それとはまったく異なる特別な難しさです。たとえばアインシュタインの一般相対性理論を数学や物理の基礎知識のない人に語るのは至難のわざでしょう。しかし語る側、聞く側の双方が本気であれば、時間はかかるにしても、できないことではありません。科学の客観性とはそういうことで、誰でも一定の手続きを踏めば真理に到ることが保証されています。逆に、その明確な手続きが示せなければ、それを真理とは言えないということです(ひと昔前のスタップ細胞を巡る騒動はそれを教えてくれました)。
 それに対して、まだ目覚めのない人に自分の目覚めを伝えるのは「難中の難、これに過ぎたるはなし」と言わなければなりません。この難しさの特徴は、自分の目覚めをどれほど詳しく語っても、それを聞いた人が目覚めに至るかどうかは分からないところにあります。かくかくしかじかの手続きを踏めば、誰でも目覚めに至ることができるとは言えないということです。有縁の知識が「わたしはこんな目覚めに至りました」と語るのは、目覚めの証言と言えますが、その証言を聞くことと、聞いた本人自身が目覚めることとはまったく別です。どれほど丁寧に証言しても、だからと言って聞いた人が目覚めることにはなりません。ここに「難中の難、これに過ぎたるはなし」である所以があります。
 としますと目覚めの証言をすることにどんな意味があるのかということにもなりかねません。釈迦が自分の目覚めについて語るのを躊躇したのもそういうことだろうと思います。何度も言うようで恐縮ですが、有縁の知識の話を聞くこと「によって」仏法に気づくことはできません。それは確かですが、でもそれと同じように確かなのは、有縁の知識の話を聞くこと「を通して」、そのなかから自分自身が仏法に気づくしかないということです。有縁の知識のことばを聞くことが仏法の気づきをもたらすのではありませんが、しかし有縁の知識のことばを聞くこと「を通して」仏法の気づきに至るしか道はありません。そんなわけで「幸ひに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや」と言われるのです。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
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