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弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて [『歎異抄』ふたたび(その11)]

            第2回 弥陀の誓願

(1)弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて

 第1章に入ります。

 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の誓願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。

 最初の少し長きに過ぎると思われる一文に浄土真宗(宗派の名ではありません、「浄土の真実の教え」という意味です)のすべてが盛り込まれています。
 親鸞は『教行信証』の第一の巻である「教巻」において、浄土の真実の教えは『大無量寿経』に説かれており、その要諦は弥陀の本願とその名号であると述べていますが、それは「弥陀の本願を信じ(信心)、その名号を称えること(念仏)が、救い(往生)である」ということです。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という一文にそれが言われています。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて」、これが信心です。「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」、これが念仏です。そして「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」、これが往生です。信心し念仏する、それが往生である、とこれだけです。
 先回くどくど述べましたように、仏法はこちらからゲットする(悟る)ものではなく、むこうからゲットされる(目覚める)ものです。で、ゲットされてしまいますと、「ああ、そうか」となるのですが、ゲットされるまでは、いったい何を言おうとしているのかを了解できず苦しむことになります。しかしどれほど苦しくても、仏法とは何か、いまの場合、浄土の教えとは何かについて有縁の知識が語ることばを聞くことを通してしか目覚めに至ることができません。そこでこの「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」ということば(親鸞の証言)をじっくり聞思(『教行信証』序のことばです)したいと思います。

タグ:親鸞を読む
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