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弥陀の誓願とは [『歎異抄』ふたたび(その12)]

(2)弥陀の誓願とは

 まず「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて」ということから。
 弥陀の誓願とは第十八願のことです。そこで法蔵菩薩が「若不生者、不取正覚(生まれずは、正覚を取らじ)」、つまり「一切衆生が往生できなければ(救われなければ)、わたしは仏となりません」と誓っています。そしてその誓いは十劫の昔(永遠の過去ということです)に成就して、法蔵菩薩が阿弥陀仏として成仏したとされます。ですから一切衆生が往生できる(救われる)ことになったのです。「往生する」を一々「救われる」と言い換えていますのは、往生とはもちろん「弥陀の浄土に生まれる」ことですが、それが何を意味するのかについてさまざまな議論があり、それをいま取り上げることはできませんので、とりあえず「救われる」と言っているのです。救われるとは、生死の迷い(「いずれ死ぬのに、なぜ生きる」という迷い)から抜けて安心(仏教では「あんじん」です)をえることです。
 さてしかし弥陀の誓願とはいったい何でしょう。むかし法蔵菩薩が「一切衆生が往生できなければ、わたしも仏にならない」という誓いをたて、それが実現して阿弥陀仏となられたというこの話をどう理解すればいいでしょう。これをたとえば高校生に聞かせたらどんな反応が返ってくるかは火を見るより明らかで、「それはただの物語(作り話)でしょう」と言うに決まっています。さあこれにどう答えるべきか。親鸞は『大無量寿経』こそ真実の経典であると言っているのですから、「いや、それはただの物語ではなく真実である」と答えなければなりませんが、しかしそれは「むかしそのような事実があったのだ」ということではありません。
 「真実」ではあるが「事実」ではない、これはどういうことかと言いますと、「物語として語られる真実」があるということです。

タグ:親鸞を読む
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