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事実と物語 [『歎異抄』ふたたび(その13)]

(3)事実と物語

 仏法という真実を語るのに、それを「事実」として語る方法と、「物語」として語る方法があります。それは何かある真実を人に伝えようとするときに、それが事実としてこんなふうなありようをしていると語る場合(ノンフィクション)と、それを小説の世界のなかで語る場合(フィクション)があるのと同じです。語られることがらが真実であれば、どちらの語り方であってもいいわけで、時と場合によりどちらがよりふさわしいかという違いがあるだけのことです。
 さて仏法を語る(証言する)とき、それを事実として語ろうとするのが聖道門で、それを物語として語ろうとするのが浄土門だと言えます。前者の代表として『般若心経』をあげますと、そこにはこのように語られています、「舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなはちこれ空なり、空はすなはちこれ色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。舎利子、この諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり」と。
 見られるように、これは仏法の真実を世界の事実のありようとして語っています。世界にありとあらゆるものはみな空というありようをしている、すなわち、それ自体として独立してあるのではなく、他のあらゆるものとのつながり、関係においてあるということです。龍樹は『中論』において、この空というありようについて、ことばで語りうる限界まで語り尽そうとしています。それを了解するのは困難をきわめますが、ともあれ龍樹は世界の実相(真実のありよう)を空として明らかにしようとしているのです。
 一方、仏法の真実を物語として語ろうとするのがたとえば『阿弥陀経』で、こうあります、「その時、仏、長老舎利弗に告げたまはく、これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」と。これは目の前にある世界の真実のありようを語るのではなく、「これより西方に、十万億土を過ぎて」存在するとされる極楽世界と、そこにまします阿弥陀仏のことを語るのです。これは明らかに物語としての語り方です。

タグ:親鸞を読む
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