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弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり [『歎異抄』ふたたび(その14)]

(4)弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり

 極楽世界にせよ阿弥陀仏にせよ仮構されたものなのに(フィクションなのに)、どうしてそれが真実を語るのかと言われるかもしれません。真実ではないことを仮構と言うのではないのか、と。そこで、ことばの意味を整理しておかなければなりません。「真実(true)」の反対は「虚偽(false)」で、「事実(fact)」の反対が「仮構(fiction)」です。したがって仮構されたものが真実であることは何も矛盾ではありませんし、逆に、事実であることが虚偽であることもざらにあります。極楽世界や阿弥陀仏は仮構されたものだから(フィクションだから)真実ではないとは言えず、その仮構のなかに紛れもない真実が潜んでいるのです。
 ではいったい極楽世界や阿弥陀仏という仮構にどんな真実が潜んでいるのでしょう。それについて晩年の親鸞が語ってくれている取っておきの文章があります。有名な「自然法爾章(じねんほうにしょう)」です。「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」。この文章は高田門徒の顕智が京の親鸞を訪ね、直々に聞いたことばを書き残してくれたもので、最晩年(86歳)の親鸞がこころ隔てなくもっとも円熟した境地を語っています。
 阿弥陀仏と言われるとどうしてもかたちある実体を思い浮かべてしまうが、しかし阿弥陀仏とは「自然のやう」を知らせようとして立てられた「料(手立て)」なのだ、と言っています。「自然のやう」についてはこの前の段で「自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむということばなり。然といふは、しからしむといふ言葉、行者のはからひにあらず」と述べられていて、要するにこちらから計らうことではなく、むこうから計らわれること、すなわち他力を意味します。ですからここで親鸞が言っているのは、阿弥陀仏というのは他力の真実をいうための手立てとして仮構されたものだということです。

タグ:親鸞を読む
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