SSブログ

空と他力 [『歎異抄』ふたたび(その15)]

(5)空と他力

 『般若経典』は「世界の実相は空である」と語り、『浄土経典』は「阿弥陀仏の本願によってわれらは救われる」と語ります。どこから見てもつながりがあるようには思えませんが、しかしどちらも同じ仏法の真実を語っており、その語り方が「事実(fact)として語る」か「物語(fiction)として語る」かの違いにすぎません。では両者はどのようにつながるのかといいますと、その接点は「わたし」にあります。前回述べましたように、われらが生きる上で「わたし」という存在があらゆることの前提条件となっています。もうあまりにも当たり前のことで誰もそれを意識しませんが、どんなことにおいても「わたしがある」が絶対的起点となっています。
 釈迦はそれが心の囚われではないかと気づいた。われらは「わたしがある」を仮構しているだけではないか、そしてそれがあらゆる苦しみの元になっているのではないかということです。これが釈迦の無我の気づきで、「どこにも“わたし”という実体はないのに、それがあるかのように囚われていることから苦しみが生まれる」と表すことができます。『般若経典』はそれをそのまま事実のありようとして「世界の実相は空であり、“わたし”というそれだけで自立した実体はない」と語ります。それに対して『浄土経典』はそれを物語として「われらは“わたし”の力(自力)で救いを得ることはできず、阿弥陀仏の本願他力によってはじめて救われる」と語るのです。
 「空」と「他力」は似ても似つかぬ顔つきをしていますが、実は「“わたし”という実体はない」というひとつの真実を違った語り口で語っているのです。どうして物語で語る必要があるのか、事実として語ればすむことではないかと言われるかもしれませんが、「世界の実相は空である」と言われても、それこそ「空をつかむ」ようで、一向にピンとこない人のために「われらは阿弥陀仏の本願他力によって生かされている」という語り口が生まれてきたと言えるでしょう。その語り口が「自然(他力)のやうをしらしめん料」であることが了解できますと、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」という物語を真実そのものとして素直に受けとめることができるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。