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念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき [『歎異抄』ふたたび(その16)]

(6)念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき

 これまで「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて」について見てきましたが、それにつづいて「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」ときます。弥陀の本願にたすけられると信じることは、取りも直さず念仏申さんと思うこころがおこることだというのです。信心は念仏を伴う、ということですが、これはどういうことでしょう。そもそも念仏とは何か、ここからスタートしなければなりませんが、これを考えるたびに頭に浮ぶ一人の歴史学者がいます。家永三郎氏です。彼は親鸞の他力思想をきわめて高く評価するのですが、称名念仏については「これはどうも」と言われます。旧い仏教の体質を引きずっていると言われるのです。おそらく南無阿弥陀仏を真言密教のマントラのようなものと思われているのでしょう。
 これには親鸞自身に応答してもらいましょう。親鸞はこう言います、「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(『教行信証』「信巻」)と。家永氏の言われるマントラとしての名号は「願力の信心を具せざる」ものに違いありません。その場合の名号は「ためにする名号」であり、こころに何か期するところがあって称える名号です。一方、本願力の信心があるならば、それはかならず念仏につながるのだと親鸞は言うのです。どうしてでしょうか。さあ、この問いに答えるために『教行信証』が書かれているわけで、ひと言やふた言で答えられるものではありませんが、そのエッセンスを手短にお話しましょう。
 われらは念仏と聞きますと、われらが称えるものと思います。家永氏もそう思われていたでしょう。しかし親鸞が『教行信証』で力説するのは、われらが名号を称えるには違いないが、それより前にむこうから名号が聞こえてくるのだということです。むこうから聞こえてくるから、それにこだまするように称えるのだと。むこうから名号が聞こえることが信心に他なりません。そしてそれにこだまするように名号を称えるのが念仏ですから、真実の信心はかならず名号を具すことになります。

タグ:親鸞を読む
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