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すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ [『歎異抄』ふたたび(その18)]

(8)すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」まできまして、それにつづく「すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」です。
 本願を信じ念仏申さんとするそのときに、摂取不捨の利益に与るというのですが、さて摂取不捨とはどういうことでしょう。このことばは『観経』の第九観、いわゆる真身観(阿弥陀仏の身相と光明を観る段)に出てきます、「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」と。これを見ますと、摂取不捨とは弥陀の光明に包みこまれ、光のなかで弥陀とひとつになるというイメージですが、光明は智慧をあらわしますから、われらにこれまでにはない智慧が芽生えるということでしょう。
 この智慧とは、少し前のところで述べましたように(5)、これまでずっと、どんなことにおいても「わたし」を絶対的起点として生きてきましたが(「われ思う、ゆえにわれあり」)、それはこころの囚われであり、「わたし」という実体があるかのごとく仮構しているだけではないかという気づきです。これは一つの目覚めの経験で、これまでの人生が画然と終わり、新しい人生がはじまったという感動を伴うものです。善導は「前念命終、後念即生(前念に命終して、後念にすなはち生まる)」(『往生礼讃』)と表現しましたが、それはまさにこの新たな生のはじまりでしょう。
 親鸞はこの善導のことばに注目して、次のように述べています、「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり」(『愚禿鈔』)と。すなわち、本願を信受することができたときに、これまでの人生が終わり、まったく新しい人生がはじまるが、それこそ往生することに他ならないというのです。往生とは、これまでとはまったく違う新しい人生がはじまることを意味するということです。そこから考えますと、ここで「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」と言われているのは、往生に与ることに他なりません。これはしかし伝統的な往生観とは大きく異なります。

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