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臨終まつことなし、来迎たのむことなし [『歎異抄』ふたたび(その19)]

(9)臨終まつことなし、来迎たのむことなし

 親鸞が、本願を信じ念仏申さんと思い立つそのときに摂取不捨の利益に与ると言うのは、信心し念仏申さんと思い立つときがそのまま往生のときであるということです。しかし伝統的な往生の理解では、信心し念仏するときには往生が約束されるだけであり、往生そのものは命終わらんとする時であるとされます。確かに『観経』を読みますと、往生というのは命終わらんとする時に阿弥陀仏の来迎を受け、かの極楽浄土に生まれることであると書いてあります。それをもとに多くの来迎図が画かれ、臨終の往生が視覚的にしっかり焼きつけられました。
 しかし親鸞はこの『観経』の往生は第19願の諸行往生であり、第18願の念仏往生ではないとはっきり言います。
 「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(『末燈鈔』第1通)。これ以上明確に言うことができないほどはっきりと「信心のときが摂取不捨のときであり、それが往生のときに他ならないから、臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と述べられています。
 ところが伝統的な観経的往生観に立つ人はこの文を別様に読みます。最後の「信心の定まるとき往生また定まる」という文の「往生また定まる」というのは、将来の往生が決定されるということであり、信心のときに直ちに往生するわけではないと理解するのです。確かにあることが「定まる」というのは、予定の意味、つまり予め定まるということで、実際にはそれがおこるのは「これから」ということです。しかし今の場合、信心についても「定まる」と言われていて、これは「もうすでに」信心がおこっているということですから、往生が「定まる」も同じように「もうすでに」往生がはじまっていると受けとるのが自然です。

タグ:親鸞を読む
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