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罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがため [『歎異抄』ふたたび(その22)]

(12)罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがため

 いや、序列をつけることと差別することとは別だよ、という反論があることでしょう。ただ序列をつけるだけではなく、序列によって扱いに差をつけることが差別だと。どうやら平等に二つの意味があるようです。ひとつは序列自体のないこと、すなわち横一線に並ぶということ、もうひとつは序列はあっても、それによって扱いに差をつけないことです。普通はふたつ目の意味でつかわれ、憲法の「法の下の平等」(第14条)もその意味です。人間にさまざまな格差があるのはやむを得ないことで、ただそれによって扱いに差をつけないのが平等だという理解です。
 なるほどと納得しそうになりますが、さてしかし序列をつけても、その扱いに差をつけないということがほんとうにできるものでしょうか。序列があるところには、扱いの差別があるのではないでしょうか。そもそも序列をつけるのは、扱いに差別をつけるためではないかということです。扱いに差別をつける必要がないなら、序列をつける意味がありません。われらはいつでもどこでも身の回りのものや人に序列をつけていますが、それは「これはよし、これはわろし」と選ぶためです。われらが生きることはものや人を選別することに他なりません。
 としますと、本願は平等であり、人を選ばないというのはどういうことか。
 この場合の平等は「横一線」の平等です。序列をつけない絶対の平等です。しかし何度も言いますように、だれ一人として同じではなく、どこかが違っているのに「横一線」の平等なんてどこにあるのでしょう。それは誰もみなひとしく「罪悪深重、煩悩熾盛」であるということです。一人ひとりどれほど違っていても、「罪悪深重・煩悩熾盛」であることにおいては横一線です。「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」とある文を、こちらに「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」がいて、あちらにそうではない衆生がいると受けとるべきではなく、衆生はみな「罪悪深重・煩悩熾盛」であると受けとらなければなりません。弥陀の本願は横一線に「罪悪深重・煩悩熾盛」である衆生をみな平等に往生させると言っているのです。

タグ:親鸞を読む
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